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昭和38年11月21日(1963年。
文学座の 文学座では『喜びの琴』の稽古に入っていたのに、なぜ、そんなことになったのでしょう? 同作に反共(反共産主義)的な台詞があり、一部の劇団員にはそれが耐え難たかったようです。この戯曲は警察署の一室が舞台ですが、そこに登場する片桐という公安の若い巡査が次のように語ります。 片桐:(村松の目くばせに気づかず)
わかり切つてるぢやありませんか。国際共産主義者の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところに噴火口を見つけようと そして、作中、電車転覆事故が起こりますが、右翼系の人の仕業と思われるように共産系の人が仕組んだ陰謀だったというオチになっています。この箇所が大問題で、政府・警察・検察・司法がグルになって起こした「松川事件」という列車転覆謀略事件があり、14年という長い裁判闘争をへてようやく結審、3ヶ月ばかり前に(昭和38年9月)、告訴された共産系の人たち全員の無罪が確定したばかりだったのです。『喜びの琴』はその判決を
「松川事件」の判決を三島は嘲笑いましたが、その後の国家賠償裁判の判決は、三島の“敗北”でした。昭和45年8月17日、国は原告(松川事件の被告17名とその妻5名、親兄姉12名)に賠償金を払いました。そのおよそ3ヶ月後の三島の自裁に何らかの影響を及ぼしたかもしれません。 ただし、この時期(『喜びの琴』が上演中止になった昭和38年頃)に、三島が共産主義(特に国際共産主義)を嫌悪したのには、理由がありました。 この時期、共産国をかたるソ連と中国がとんでもないことになっていたからです。ソ連は、7年前(昭和31年)、フルシチョフ(61歳)がスターリン(没後約3年)らがおこなった大粛清を公表、日本でも知られるところとなりました。 中国についても、三島の“予見”が当たり、3年後の昭和41年、「文化大革命」が起こります。毛 沢東思想を信奉する学生らが
「文化大革命」について多くの文化人が口を閉ざす中、革命勃発の翌年(昭和42年)、三島(42歳)は、川端康成(67歳)、安部公房(42歳)、石川 淳(67歳)らと反対を表明します。 ・・・われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を
三島らに賛同する人が少なかったのは、当時、中国に唯一特派員を置くことを許された「朝日新聞」が、中国におもねってか「文化大革命」を批判してこなかったことが大きいようです。毛 沢東をニコニコした穏やかそうなおじさんくらいに思っている日本人が多かったことでしょう。そんな中で、実態を見抜き決然と批判した三島らは立派です。安部は昭和25年から共産党員だった人です(昭和36年の日本共産党党大会決定に批判的な立場をとり除名されていたが)。 共産主義といった理想主義には、実は排他的で全体主義的に陥りやすい要素があることを三島はいち早く見抜き、問題意識を持っていたため、『喜びの琴』でも共産主義を揶揄するような表現となったのでしょう(だからといって許されるものはありませんが)。 上の声明の肝は、「左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議」という部分でしょう。問題は、左翼とか右翼、または「ど真ん中」(偏っている人が自分の立場をよくそう言う)とかいったスタンス(立場)ではなくて、それが「自由」を、つまりは「個人」の多様な意思や思想や思索や表現や生活を、保証しているか、侵害していないかということです。公平・公正といった理念は、当たり前で、素晴らしいだけに、「これっきゃない、他はダメ」と排他的となり、全体主義、独裁主義、絶対主義にも陥りやすいと言えそうです。 資本主義でうまい汁を吸っている人たちは(資本主義は不公平や不公正を生む。「格差があってもいいんじゃないんすかねぇ〜」とかトーンダウンさせていいような甘っちょろいもんじゃない)、社会主義とか共産主義にあたかも問題があるように言いますが、社会主義とか共産主義が目指す公平・公正といった理念自体に異議を唱えられる人は反社会的な思想に染まっている人以外はあまりいないでしょう。繰り返しになりますが、「個人」の多様な意思や思想や思索や表現や生活が保証される政体になっているかが肝心。 宗教も、理念が先鋭化すると、「これっきゃない、他はダメ」と排他的になり、自らの立場を絶対化し、他は「
話を元に戻すと、『喜びの琴』を最後まで読むと、反共的なプロパガンダ作品などでは全くないことが分かります。反共思想を単純に信じ込んでいる主人公の片桐を批判しているとも読めます。三島が言いたいのは、おそらくは、「絶対的な正義」など存在しないこと。相対的な正義(常に自己検証を必要とするプロセスの中にある正義)を人は孤独に受け入れるしかなく、しかし、その孤独の中でこそ、救済もあるということ。その救済の象徴が“喜びの琴”なのでしょう。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: 当ページの最終修正年月日 |