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昭和38年11月21日(1963年。
文学座の 文学座では『喜びの琴』の稽古に入っていたのに、なぜ、そんなことになったのでしょう? 同作に反共(反共産主義)的な台詞があり、一部の劇団員にはそれが耐え難たかったようです。この戯曲は警察署の一室が舞台ですが、そこに登場する片桐という公安の若い巡査が次のように語ります。 片桐:(村松の目くばせに気づかず)わかり切つてるぢやありませんか。国際共産主義者の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところに噴火口を見つけようと そして、作中、電車転覆事故が起こりますが、右翼系の人の仕業と思われるように共産系の人が仕組んだ陰謀だったというオチです。特にここが問題となったのでしょう。 三島はその判決を嘲笑うような、または誤解を招くような表現を『喜びの琴』でしたのです。そして、文学座の一部の座員が涙ながらにこの脚本を拒絶した。 座員の心情も理解できますが、三島が共産主義(特に国際共産主義)を嫌悪したのにも理由がありました。 この時期、共産国をかたるソ連と中国がとんでもないことになっていたからです。ソ連は、7年前(昭和31年)、フルシチョフ(61歳)がスターリン(没後約3年)らがおこなった大粛清を公表、日本でも知られるところとなっていました。 中国についても、三島の“予見”が当たり、3年後の昭和41年、「文化大革命」が起きます。毛 沢東思想を信奉する学生らが 「文化大革命」について多くの文化人が口を閉ざす中、革命勃発の翌年(昭和42年)、反対を表明したのは、三島(42歳)、川端康成(67歳)、安部公房(42歳)、石川 淳(67歳)の4名です。 ・・・われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を
三島らに賛同する人が少なかったのは、当時、中国に唯一特派員を置くことを許された「朝日新聞」が、中国におもねってか「文化大革命」を批判してこなかったことが大きいのでしょう。毛 沢東をニコニコした穏やかそうなおじさんくらいに思っている日本人が多かったと思います。そんな中で、実態を見抜き決然と批判した三島らは鋭い。ちなみに、安部は昭和25年から共産党員だった人です(昭和36年の日本共産党党大会決定に批判的な立場をとり除名されたが)。 上の声明の肝は、「左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて」という部分でしょう。問題は、左とか右とか、または「ど真ん中」(偏っている人ほど自分の立場をよくそう表す)といったスタンス(立場)ではなくて、それが「自由」を、つまりは「個人」の多様な意思や思想や思索や表現や生活を、保証しているか、侵害していないかということです。 共産主義は、公平・公正といった素晴らしい(実は当たり前なことですが)理念を含むため、三島がいち早く見抜いたように、「これっきゃない、他はダメ」と教条的になり、排他的になり、全体主義、独裁主義、絶対主義にも陥りやすいのでしょう。主義は素晴らしくても、それを運用するのは、あくまでも「不完全な人間」。批判を聞く耳を失った時点(批判を誹謗中傷と言い出す時点)から堕落が始まります。 宗教も、理念が先鋭化すると、「これっきゃない、他はダメ」と排他的になり、自らの立場を絶対化し、他は「 話を元に戻すと、『喜びの琴』を最後まで読むと、反共的なプロパガンダ作品などでは全くないことが分かります。反共思想を単純に信じ込んでいる主人公の片桐を批判しているとも読めます。三島が言いたいのは、「絶対的な正義」など存在しないこと。相対的な正義(常に自己検証を必要とするプロセスの中にある正義)を人は孤独に受け入れるしかなく、しかし、その孤独の中でこそ、救済もあるということ。その救済の象徴が“喜びの琴”なのでしょう。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: 当ページの最終修正年月日 |