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大正7年5月21日(1918年。 プロコフィエフ(27歳)が、「シベリア鉄道」で揺られながら、日記に次のように記しています。 驚くほどはっきりとマクス・シュミトゴフの夢を見た。彼とはずいぶん多くの時間をともにした。彼の姿を見ているのが嬉しくて、消えてしまうのではないかと不安だった。・・・ マクス・シュミトゴフはプロコフィエフの親友。次にドキッとすることが書かれています。 ・・・けれども目が覚めるとマクスは消えていた。彼がピストル自殺してからもう五年。つい最近、ソナタ四番を彼に捧げたが(初版第一楽章への献辞として)、マクスの思い出はすべて消えていき、はるか遠くに離れていった。今再び、彼がこの世にいないことが鋭く胸に突き刺さる。・・・(プロコフィエフ『日本滞在日記』より) ところで、プロコフィエフは、なぜ、「シベリア鉄道」に乗っているのでしょう? 彼はサンクトペテルブルク音楽院在学中から、斬新な曲を作って、すでに世界から注目されていました。ところが、前年(大正6年)、ロシアで革命がおき、世の中が不安定となり創作に集中できなくなって、米国への移住を決意します(プロコフィエフはウクライナ生まれだが、当時、ウクライナは出来たばかりのソ連にほぼ組み込まれた)。サンクトペテルブルク(Map→)を出発したのが翌大正7年の5月2日。そして、5月7日夜、始点・モスクワ(Map→)から「シベリア鉄道」の客となり、終点のウラジオストック(Map→)に向かいました(南米行きの船便を逃し、日本にも2ヶ月滞在する)。 「シベリア鉄道」は、全長約9,300kmで世界一長い鉄道です。ロシアの南部を西から東へとほぼ横断。プロコフィエフは16日間「シベリア鉄道」に乗りました。16日かかるとはいえ(現在は6泊7日で走破できる)、第二次世界大戦後に旅客機が一般化するまでは、モスクワ(ヨーロッパ方面)・日本間の最速移動手段でした。 「シベリア鉄道」が敷かれ始めるのは明治24年です。帝政ロシアには、鉄道で労働力を送り込みシベリアを開発することと、鉄道での軍事力の輸送を可能にして極東に睨みを効かせることといった、2つの大きな目的がありました。後者の目的に過剰に反応して引き起こされたのが「大津事件」(明治42年5月11日)です。襲撃されたロシアの皇太子(後のニコライ2世)は、側頭部に傷を負ったものの命には別状なく、その足でウラジオストックで行われた「シベリア鉄道」の起工式に参列しています。 「シベリア鉄道」が全通するのは明治36年ですが、バイカル湖のみは航路でした。バイカル湖迂回線が竣工し全行程を鉄道で行けるようになるのは翌明治37年です。ロシアは日露戦争での軍事目的のため工事を急ぎました。 「日露戦争」(明治37-38年)終結直後(明治39年)の徳富蘆花の「巡礼」も、行きは船で、帰りは「シベリア鉄道」でした。 ・・・シベリアも平一面の野原にあらず。川あり、林あり、高原の起伏あり。ウラルを越して初二日はおもにオービ流域の平原、オームスクを過ぎてようやく高原となり、イルクーツクを過ぎてバイカルに下る。沿道やや拓かれたる畑には麦ようやく熟せんとするあり、なお青きあり。林は平原の
明治45年5月8日、与謝野晶子(33)が、ウラジオストックで「シベリア鉄道」に乗り、憧れのパリを目指しました。夫の与謝野鉄幹と行くつもりでしたが、「源氏物語」の現代語訳の仕事に追われ、かなわず、半年ほど遅れて一人で「シベリア鉄道」の客となります。気丈に見える晶子ですが、車内で、周りが皆自分を訝しげに見ているようで、終始、顔を覆ったまま過ごしたようです。たまたま、乗り合わせた日本人に助けられてなんとか乗り切ったという感じです。その時のことが鉄幹との共著『巴里より』の「巴里まで」(NDL→)の章に書かれています。 辻 潤(43歳)は長男のまこと(14歳)を連れ、昭和3年の1月に出航、40日ほどかけてフランスに到着します。「読売新聞」の特置員という肩書きで、パリに1年ほど滞在しました。資金が底をつき始めたので、帰りは「シベリア鉄道」の三等車を利用。「シベリア鉄道」はお金をかけずにヨーロッパに渡る(またはヨーロッパから戻る)手段でした。 辻 潤・辻まこと父子がパリに滞在した昭和3年には、吉屋信子(32歳)も9月から1年ほど海外を巡り、やはり「シベリア鉄道」を利用しています。神戸から中国の
林 芙美子も「シベリア鉄道」で一人パリを目指しました。しかも満州事変の最中です。長春からハルビンに出て、やはり「東清線」から「シベリア鉄道」本線入り。林が「東清線」のハルビン・チチハル・ 大正12年、ベルリンでの国際アナキスト大会に参加するために日本を脱出した大杉 栄(37歳)も「シベリア鉄道」利用か?と思いきや、行きも帰りも船なのですね! 行きは、中国人に化けて上海からフランス籍の船でフランスに渡り、パリ近郊で演説して逮捕されて強制退去処分になったため、帰りは日本領事館の手配でマルセイユから船でゆうゆうと帰って来ています(笑)(Amazon/大杉 栄『日本脱出記』(土曜社)→)。
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