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近藤富枝『馬込文学地図』を読む(美人給仕の正体)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正12年から昭和11年ごろまでの15年間、当地(東京都大田区馬込周辺)は作家たちの往来が盛んで、「馬込文士村」と呼ばれる。『馬込文学地図』はこの15年間について書かれている。

「馬込文士村」誕生のきっかけを作ったのが、尾﨑士郎と宇野千代だ。

さて、5年前の大正7年頃、東京本郷のフランス料理店 「 燕楽軒えんらくけん 」 に、めっぽうキレイな給仕がいたという。

この給仕に魅せられたのが、新進作家の久米正雄をはじめ、 画家の上野山清貢うえのやま・きよつぐ邦枝完二、今 東光。他にも、佐藤春夫芥川龍之介らが、この給仕を見かけている。

この給仕が燕楽軒で働いたのは、わずか2週間半(18日間)なのに、なぜ、彼女はこんなにも多くの作家の目にとまったのだろう? それは、当時、道をはさんで向かいに中央公論社の社屋が建っていたからのようだ。

「中央公論」の編集長からして、毎日、燕楽軒に現れ、食事後、毎回50銭のチップを置いていったという。名編集長として鳴らした 瀧田樗陰 たきた・ちょいん である。

その後、この給仕はいなくなり、3年が過ぎる。

夢中になった作家たちの頭からも彼女のイメージが消えようかという時、「時事新報」で小説のコンクールがあった(大正10年)。今の芥川賞・直木賞といったところだろう(芥川賞と直木賞は昭和10年から)。

選ばれた上位4作品は、

1位 『脂粉しふんの顔』(藤村千代)
2位 『獄中より』(尾﨑泗作)
3位 『紅茶の味』(泉 精一)
4位 『踊見』(兼光左馬)

審査員だった久米も、藤村という人が書いた『脂粉の顔』に最高点を入れていた。しばらくして、久米はびっくりする。藤村という女性が、かの給仕だったのだ。のちの宇野千代である。藤村(宇野)は、後の有名作家・尾﨑士郎(尾﨑泗作)や横光利一(兼光左馬)を抜いて、1位になったのだ。

このように、宇野の作家デビューは劇的だった。

でも、『馬込文学地図』に紹介される話は、これで終わらない。

かの給仕(藤村千代・宇野千代)は、北海道の家に戻って、せっせと2作目『墓をあば く』を書いて、かの50銭チップの男(滝田樗陰)に送りつけた。それがトントン拍子に「中央公論」に掲載されて、かの給仕は、もはや新進作家の仲間入りだ。

これまた劇的だが、話はまだ続く。

『墓を発く』の大枚の原稿料を手にして、宇野(かの給仕)は、故郷の岩国に錦を飾った後、東京に戻って、滝田にお礼を言いに「中央公論」に行った。その時、たまたま、滝田尾﨑士郎(尾﨑泗作)も訪れていて、宇野尾﨑邂逅かいこう。最初に紹介したように、2人は、当地(東京都大田区馬込)に流れ着いて、「馬込文士村」の核となる次第。

『馬込文学地図』を読むと、人と人とが、いかに劇的に出会い、その劇的な出会いが、いかに作品になっていったかが分かる。「ふつう」の生き方をしていたら、ま、出会いも「ふつう」で、生まれる作品も「ふつう」でしょうか。

文壇史は男性作家が目白押しだ。かつて女性は家事に縛られていたので、書くどころでなかった。著者の近藤富枝はいう。『馬込文学地図』で取り上げた時代は、女性が必死になって自己顕現を図った時代なのだと。

同書には、この宇野千代の他、芥川龍之介をして「才力の上にも格闘できる女」といわしめた歌人・片山広子萩原朔太郎を捨てて若いダンス仲間と出奔した萩原稲子、男性作家をとりこにしたバー「白蛾」のマダム・星野幸子なども登場。数の上ではまだ負けていても、ここでは、女性陣がだんぜん異彩を放す。


『馬込文学地図』について

当地の文学を知るには、まずはこの一冊

昭和50年10月、講談社から発行された近藤富枝(50歳)の作品。 。当地(東京都大田区馬込周辺)の文学を有名にした。本書には、上記の人物の他、室生犀星広津和郎広津柳浪高田 保間宮茂輔北原白秋、平木二郎、川端康成牧野信一榊山 潤、保高徳蔵、筒井敏雄、今井達夫藤浦 洸、吉田甲子太郎、鈴木彦次郎山本周五郎衣巻省三三好達治倉田百三子母沢 寛稲垣足穂高見 順日夏耿之介小島政二郎佐多稲子、上泉秀信、小林古径川端龍子梶井基次郎村岡花子らも登場。


近藤富枝について

複雑な家庭事情
大正11年8月19日、東京都日本橋の袋物問屋の大店で生まれたが、父の代で破産、両親は離婚し、東京田端(芥川龍之介の家のすぐ近く)で隠居していた父方の祖父母の元で育つ。

文部省を経て、NHKアナウンサーに
東京女子大学国語専攻部に在学中、演劇に熱中、「芸術小劇場」の研究生にもなった。大学を首席で卒業後、文部省に勤め、昭和19年、NHKのアナウンサーとなって終戦時の放送にも立ち合った。昭和21年(24歳)、近所(田端)の近藤新治と結婚、夫婦で毛糸屋を開く。大学時代からの親友・瀬戸内晴美(寂聴) が店の手伝いをすることもあった。

文壇史を新しい切り口で
子育てが一段落した頃から書きはじめ、昭和38年(41歳)、「週刊朝日」のコンテストでルポ「私の八月十五日」が特選になった。瀬戸内が雑誌を紹介、調査が丹念で、文章が手堅いと評判になって引っ張りだことなる。

叔母(父の妹)が「菊富士ホテル」の経営者の長男の妻で、その縁で『本郷菊富士ホテルAmazon→(昭和49年。52歳)を執筆。1つの場所にスポットを当てそこを行き来した人物を描くという手法で、 『田端文士村』Amazon→ 、『馬込文学地図』Amazon→ も書く( 以上「文壇資料 三部作」という)。

著書は、「源氏物語」に関するもの(『服装で楽しむ源氏物語』Amazon→、『紫式部の恋 〜「源氏物語」誕生の謎を解く 』Amazon→など)、着物に関するエッセイ(『文士のきもの』Amazon→、『一葉のきもの』Amazon→など)、ミステリー(『宵待草殺人事件』Amazon→ 、『鹿鳴館殺人事件』など)、作家の評伝・小説(『荷風と左団次 〜交情蜜のごとし〜』Amazon→、『待てど暮らせど来ぬひとを〜小説竹久夢二〜』Amazon→など)など多岐にわたる。『矢田 津世子つせこ全集』の編纂、晩年は、王朝の世継ぎ研究もおこなった。

昭和56年10月5日から翌年4月3日まで放送されたNHKの朝の連続ドラマ「本日も晴天なり」(原作・脚本:小山内美江子)は、 アナウンサーから作家への道をたどった近藤の半生が元になっているという(参考サイト:NHKアーカイブス/連続テレビ小説「本日も晴天なり」→)。

平成28年7月25日 (2016年。93歳) 、老衰により死去。( )。

ノンフィクション作家の森 まゆみ氏は姪(妹の子)にあたる。

近藤富枝『相聞 ―文学者たちの愛の軌跡』 近藤富枝『大本営発表のマイク 〜私の十五年戦争〜』
近藤富枝『信濃追分文学譜 (中公文庫) 』 近藤富枝『大本営発表のマイク 〜私の十五年戦争〜』

参考文献

●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.2、P.17-24 ●『生きて行く私(中公文庫)』(宇野千代 平成4年発行)97、P.117 ●『大本営発表のマイク 〜私の十五年戦争〜』(近藤富枝 河出書房新社 平成25年発行)P.13 ●「近藤富枝さん(1)(2)」(瀬戸内寂聴)※「東京新聞(夕刊)」(平成28年8月24日号、9月21日号)に掲載 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 文藝春秋 平成22年発行)P.57  ●『本郷菊富士ホテル(中公文庫)』 (近藤富枝 昭和58年初版発行 平成10年発行4刷)P.12 ●「近藤富枝『宵待草殺人事件』(東京「散歩物語」No.271)」(堀越正光)※「朝日新聞」(平成25年7月31日号)に掲載


※当ページの最終修正年月日
2023.11.1

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