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第1回芥川賞の最終選考に残った5人。左は石川達三。右は上から高見 順、衣巻省三、外村 繁、太宰 治 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『昭和文学作家史』(毎日新聞社)、『昭和文学アルバム(1)(新潮日本文学アルバム)』、『馬込文士村 ~あの頃、馬込は笑いに充ちていた~』(東京都大田区立郷土博物館)、「外村 繁 昭和十年 満三十二歳(文學アルバム)」(稀覯本の世界→)、『太宰 治(新潮日本文学アルバム)』 昭和10年8月10日(1935年。
石川達三(30歳)の『 ブラジルへ移民する人たちの、日本を離れるまでの8日間を描いた作品です。「蒼氓」とは、「
収容所には1,000人近くが集ってきます。「満五十歳以下の夫婦及びその家族にして満十二歳以上の者」という条件をクリアーするため「形だけの夫婦」になる者、「形だけの婿」なのに息子が他の姓になることに猛り狂う母、「兵役を逃れるための移民だろう」と詰られて移民を止めようかと考える青年、9人の子どもを抱える「白痴のような夫婦」、移民する弟を助けるため日本に好きな人がいるのに移民になる決意をした姉、最終的な身体検査にひっかかって「もう帰れない故郷」に帰ってゆく一家、「みんなそんなもんだろう」とあきらめて助監督に犯されるままでいる女など、様々な人間模様が描かれています。著者石川自身のブラジル移民体験が下敷きになっています。 最終選考に残った顔ぶれもなかなかです。「相当なレベルで粒が揃っているのから一篇を選出するのは無理な感じも多かった」と選考委員の佐藤春夫がこぼしています。 候補作の1つ『
衣巻省三(35歳)の『けしかけられた男』も最終選考に残りました。彼も当時、当地(東京都大田区南馬込四丁目)に住んでいて、当作の舞台も当地です。スランプで書けない作家の「私」が、友人に「けしかけられる」、一風変わった小説です。北園克衛がモデルと思しき人物も出てきます。雑誌への発表が前年の昭和9年ですが、ちょうどその年、北園も当地に居を構えています。新しさが評価されましたが、川端はほめながらも、登場人物の娘に対する「独善的な見下しは反省の余地ある」と道徳的に批判しました。
もう一人は、太宰 治(26歳)! 『逆行』(青空文庫→)です。太宰は、すでに3度の自殺未遂事件を起こしており(『逆行』では2度とある)、帝大仏文科卒業は絶望的。都新聞への入社試験にも落ち、薬物使用も習慣になりつつありました。『逆行』では、そのような自分を1年で3倍年をとった“老人”としてせせら笑うように書いています。そういった悲惨をいかにも軽やかにユーモラスに、一片の詩情と切なさをも漂わせて書けてしまう筆力はさすがです。 ・・・ことし落第ときまった。それでも試験はうけるのである。甲斐ない努力の美しさ。われはその美に心ひかれた。・・・・・・(太宰 治『逆行』より) 生活の立て直しのためにも何が何でも受賞したかった太宰は、その後数年にわたって「芥川賞事件」といわれるものを起こします。川端の太宰評に「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の率直に発せざる これは一見泥仕合のようで、意外に根源的な問題を含んでいます。今でも、「あの人は、〇〇だから」「あの人は、〇〇した人だから」と作品にも値打ちがないとかいう意見が時々出て、 しかもその意見が案外多くの人に支持され、時には、その作品や作家がいつの間にか世間から姿を消していることさえあるようです。人と作品は一体なのか、それとも、別個のもので、人がどんなであれ、作品自体の価値が減じるものではないのか? 興味深い問題です。 太宰は、翌昭和11年にも『晩年』が候補に挙がり、佐藤春夫からも知らせがあり今度こそはと舞い上がりますが、またもや落選。太宰は今度は佐藤への恨みをこめて『創生記』(青空文庫→)を書きました。川端の時は川端から詫びが入りますが、佐藤は『芥川賞の人々』(青空文庫→)でその内実を説明しています。 芥川賞は新進作家の生活の安定をはかるために、芥川龍之介を記念してその友人の菊池 寛が創設したもの。その作家の技量よりも「ノビしろの大きさ」や「話題性」が重視されるかな? 「話題性」といえば、昭和12年の第6回芥川賞は、中国の
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |