![]() |
![]() |
![]() |
|||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||||||||||||
![]() |
![]() |
||||||||||||||
![]() |
|
||||||||||||||
|
|
||||||||||||||
![]() |
| 辻村もと子『馬追原野』 |
昭和17年「婦人画報」の懸賞小説で一等になり、同年、風土社から出版された辻村もと子(36歳)の小説。辻村の父・直四郎が北海道に渡って最初に開拓した馬追原野(map→)でのことが書かれている。昭和19年、第一回「一葉賞」を受賞。 2部3部と書きつなぐ予定だったが体調が許さなかった(辻村は4年後の昭和21年に40歳で死去)。昭和47年(辻村の死後26年)、馬追丘陵の高台に、『馬追原野』の文学碑が建ち、「マオイ文学台」(北海道夕張郡長沼町東 map→)と呼ばれる。
メインのストーリーとは別に、北海道開拓史上のトピックスがあり興味深い。●北海道の天皇の離宮計画 ●北海道開拓において囚人が果たした役割 ●開拓顧問ホラシ・ケプロンによるクラーク博士の招聘 ●利権目当ての土地所有による弊害とその克服 ●当局が放火した「御用火事」 ●炭坑に流れた農業労働力など
■ 作品評
●「北海道移民の貴き人間歴史を教示、今の時代にも適宜なる感動を贈り得る作品」(吉屋信子)
●「作中のどの人物にも作者の優しさがかけられていて美しい」(佐多稲子)
●「太い骨格を持ちぐんぐん描写」(
![]() |
辻村もと子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『辻村もと子 〜人と文学〜』(いわみざわ文学叢書刊行会) |
●北海道の開拓者の家に生まれる
明治39年2月11日、北海道石狩平野の東、岩見沢
志文尋常高等小学校を優秀な成績で卒業したあと、父母の郷里神奈川県小田原の祖母の家に寄宿し、「小田原高等女学校」(現「(神奈川県立)小田原高等学校」(神奈川県小田原市
最初、啄木や与謝野晶子に感化されて短歌を作るが、しばらくして小説を書くようになる。同郷の作家中村武羅夫からも影響を受けた。「日本女子大学」(東京都文京区目白台二丁目8-1 map→ site→)卒業の年(昭和3年。22歳)、最初の作品集『春の落葉』(青空文庫→)を上梓。舞台が農地なのが特徴だ。岩見沢町立女子職業学校で1年ほど教鞭をとった後、結婚して東京都杉並区阿佐ヶ谷(map→)に住んだ。昭和3年(21歳)、「火の鳥」の同人になり、以後主な発表の場となる。編集も手伝う。昭和4年(23歳)頃から腎臓病を病み、体調不調に悩む。
離婚、そして執筆に専念
昭和15年(34歳)、価値観の相違から11年間の結婚生活に終止符を打ち、当地の「大野荘」(現在、マンション「MIMOZA」「メイヒルズ若山」が建っているあたりにあった。東京都大田区中央二丁目1 map→)に一人住み、執筆に専念するようになる。「火の鳥」の先輩・村岡花子(47歳)がいろいろ世話をした。この頃『馬追原野』を起筆する。モデルの父親に読ませることを願ってペンをとったが、起筆の翌年(昭和16年)、父親が没する。
昭和20年(39歳)、農作物の品種改良に打ち込む若い夫妻を描いた『月影』が芥川賞候補になるが、戦局悪化と、戦後は母体の文藝春秋社の菊池 寛(初代社長)と佐佐木茂索(二代目社長)の公職追放などによって同賞は中断(中断期間は昭和20~24年)、受賞にいたらなかった。
『挙手』の映画化が決定(戦後上映。 『別れも愉し』 と改題)。北海道に入植した頃の母を書簡形式で描いた『
昭和20年、東京大空襲後、過労により体調悪化、北海道岩見沢に帰郷して、岩見沢市の病院に入院。翌昭和21年5月24日(40歳)、長年患った腎臓病により死去する。( )
■ 辻村もと子評
●「さまざまな苦難の中にも決して他人を恨まず、暗黒の中にも光明を見出そうと努力する率直な性格であった」(村岡花子)
![]() |
| 加藤愛夫『辻村もと子 〜人と文学〜 (いわみざわ文学叢書) 』 |
昭和16年4月の父の死を機に浦和に引っ越したので当地(東京都大田区中央二丁目)にいたのは9ヶ月ほどか。同郷(北海道出身)の
●『辻村もと子 〜人と文学〜』(加藤愛夫 いわみざわ文学叢書刊行会 昭和54年発行)P.12-17、P.21、P.171 ●『馬追原野(復刻版)』(辻村もと子 岩見沢市志文 平成5年発行)P.190、P.262 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.51
※当ページの最終修正年月日
2025.4.22