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明治の20年代に北海道の開拓を志した人たちの物語である。 ほとんど何も持たずに本州から来た人たちは、 広大な大地と出会う。「自然は素晴しいなぁ」などと呑気なことを言っていられるレベルでは、到底無い。道をちょっと外せばたちまち迷い、それこそ行き倒れだ。毒草も生えていれば、熊も出る。 わずかな道具と自分たちの体だけが頼りだ。この原野で、彼らは小屋掛けすることから始めた。 家を建てるための板も木を切り倒して自分たちで作る。縄も自分たちで 店もない、どころか人がいない。食べるものも自分たちで作る。草を刈り、木を切り倒し、根を掘り起こして、土地を作り、耕し、ようやく種が蒔ける。 空を こういった困難が次々に現れるのに、『馬追原野』を読んでいるとワクワクする。そこには、「冒険」があるからだ。課題(プロブレム)がある。わざわざ高峰や未知のジャングルや宇宙の果てを目指す必要はない。生きることが、もう冒険であり、大いなるゲームだからだ。 『馬追原野』 について
昭和17年「婦人画報」の懸賞小説で一等になり、同年、風土社から出版された辻村もと子(36歳)の小説。辻村の父・直四郎が北海道に渡って最初に開拓した馬追原野(map→)でのことが書かれている。昭和19年、第一回「一葉賞」を受賞。 2部3部と書きつなぐ予定だったが体調が許さなかった(辻村は4年後の昭和21年に40歳で死去)。昭和47年(辻村の死後26年)、馬追丘陵の高台に、『馬追原野』の文学碑が建ち、「マオイ文学台」(北海道夕張郡長沼町東 map→)と呼ばれる。 メインのストーリーとは別に、北海道開拓史上のトピックスがあり興味深い。●北海道の天皇の離宮計画 ●北海道開拓において囚人が果たした役割 ●開拓顧問ホラシ・ケプロンによるクラーク博士の招聘 ●利権目当ての土地所有による弊害とその克服 ●当局が放火した「御用火事」 ●炭坑に流れた農業労働力など ■ 作品評 辻村もと子について
●北海道の開拓者の家に生まれる 志文尋常高等小学校を優秀な成績で卒業したあと、父母の郷里神奈川県小田原の祖母の家に寄宿し、「小田原高等女学校」(現「(神奈川県立)小田原高等学校」(神奈川県小田原市
最初、啄木や与謝野晶子に感化されて短歌を作るが、しばらくして小説を書くようになる。同郷の作家中村武羅夫からも影響を受けた。「日本女子大学」(東京都文京区目白台二丁目8-1 map→ site→)卒業の年(昭和3年。22歳)、最初の作品集『春の落葉』(青空文庫→)を上梓。舞台が農地なのが特徴だ。岩見沢町立女子職業学校で1年ほど教鞭をとった後、結婚して東京都杉並区阿佐ヶ谷(map→)に住んだ。昭和3年(21歳)、「火の鳥」の同人になり、以後主な発表の場となる。編集も手伝う。昭和4年(23歳)頃から腎臓病を病み、体調不調に悩む。 離婚、そして執筆に専念 昭和20年(39歳)、農作物の品種改良に打ち込む若い夫妻を描いた『月影』が芥川賞候補になるが、戦局悪化と、戦後は母体の文藝春秋社の菊池 寛(初代社長)と佐佐木茂索(二代目社長)の公職追放などによって同賞は中断(中断期間は昭和20~24年)、受賞にいたらなかった。 『挙手』の映画化が決定(戦後上映。 『別れも愉し』 と改題)。北海道に入植した頃の母を書簡形式で描いた『 昭和20年、東京大空襲後、過労により体調悪化、北海道岩見沢に帰郷して、岩見沢市の病院に入院。翌昭和21年5月24日(40歳)、長年患った腎臓病により死去する。( ) ■ 辻村もと子評
辻村もと子と馬込文学圏昭和16年4月の父の死を機に浦和に引っ越したので当地(東京都大田区中央二丁目)にいたのは9ヶ月ほどか。同郷(北海道出身)の 参考文献●『辻村もと子 〜人と文学〜』(加藤愛夫 いわみざわ文学叢書刊行会 昭和54年発行)P.12-17、P.21、P.171 ●『馬追原野(復刻版)』(辻村もと子 岩見沢市志文 平成5年発行)P.190、P.262 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.51 ※当ページの最終修正年月日 |