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河童あれこれ(折口信夫の『河童の話』や芥川龍之介の『河童』などについて)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合羽橋かっぱばし 道具街の「かっぱ河太郎」(東京都台東区松が谷二丁目25-9 map→)。文化年間(1804-1818)、この地にあった掘割を合羽屋喜八が私財をはたいて整備しようとしたところ、近くに住む河童かっぱ たちが手伝ったという。喜八が葬られた曹源寺そうげんじ(東京都台東区松が谷三丁目7-2 map→ site→は「かっぱ寺」と呼ばれる。境内の河童かっぱ 堂には河童の手のミイラがあるとか!? タイトルの「Quax, Bag, quo quel quan?」は芥川龍之介の『河童』に出てくる河童語。日本語にすると「おい、バッグ、どうしたんだ?」

折口信夫

昭和5年6月20日(1930年。 折口信夫(33歳)の『古代研究(民俗学篇第2)』が発行されました。折口は昭和3年から当地(東京都品川区西大井三丁目8 map→)に住んだので、当地にいた頃の著作です。

収録されている30もの文章の中に「 河童 かっぱ の話」Amazon→ 青空文庫→というのがあります。折口は文献だけを拠り所とはせず、現地に赴き、そこで得た印象を大切にして推論する方法を取ったので、「河童の話」でも、河童伝説が多く残る 壱岐 いき (長崎県 map→)に二夏通って書いたそうです。

「河童の話」によると、河童伝説には共通したパターンがあり、河童 河郎 かわろう 河伯 かはく 川太郎 かわたろう 水虎 すいこ )が現れるとその家が富み、それが去ると家が零落するパターン(「福の神パターン」)は各地で見られるようです。このパターンは、河童伝説に限らず他の説話や伝承にも見られます。柳田國男の『遠野物語』に書かれているザシキワラシ(座敷童子)もそうでした。異形いぎょう のものを受け入れることで人は成長する(幸せを得る)」という昔からの知恵が反映されているのかもしれません。

Hなことも書かれています。ある河童は かわや (川屋。トイレのこと)の下から手を出して、用を足している人のお尻を撫でることがあるそうです。「尻子玉しりこだま 」という架空の臓器を河童に取られると、人はへなへなになってしまうそうです。溺死者の肛門が開き切っていることから、「尻子玉」が考えられるようになったようです。上述の『遠野物語』にも河童が出てきますが、家の嫁に子を はら ませたり、馬を川に引込もうとしたりと悪さをします。これらは、河童が「危害を加えるパターン」ですね。

河童のこのプラス・マイナスの両面は、形を変え、多様に分岐し、敷衍ふえんされて、現在にいたるまで、説話、伝承、物語、小説、漫画、映画などに反映されています。

芥川龍之介

芥川龍之介は死の半年ほど前(昭和2年。35歳)『河童』を書いています。北アルプスの上高地あたりで河童の世界に転げ落ちた男が、その時のことを話す形で物語が進んでいきます。上高地には現に「河童橋」(長野県松本市安曇上高地 map→)があり、小説にも出てきます。明治42年芥川(17歳)は槍ヶ岳に登っており、その際上高地を経由、そこで見た「河童橋」が印象に残ったのかもしれません。芥川の描く河童の世界には、人間界と同じように、労働者もいれば、医者、産業人、学生、詩人、哲学者、作曲家、裁判官、政治家、ジャーナリストもいます。人間と一見同じような生活が営んますが、残酷なこともします。男(河童の世界に転げ落ちた人間)がそのことに反感を覚えると、河童たちは腹を抱えて笑いながら、人間はもっと理不尽なことをしていると説明してきます。河童の世界を借りてはいますが、鋭い社会批判になっており、あんな時代ですから、芥川はこれを背水の陣で(検挙・発行禁止を覚悟で)書いたのでしょうね芥川の忌日は「河童忌」と呼ばれています。

片山広子

芥川と親しかった片山広子が、芥川の死から四半世紀たった昭和27年(片山74歳)、『カッパのクー』というアイルランド伝説集を出しています。片山は大正時代にダイセイニ、シング、イェイツ、マクラウドといったアイルランドの作家の作品を翻訳しましたが、その後翻訳から離れてましたので突発的な訳業です。収録されている「カッパのクー」(原作はトマス・クロフトン・クローカーの『魂の龍』)は、アイルランドの海に住まう人魚(Merrow)の話ですが、男の人魚は、歯が緑で、頭の毛も緑で、目は豚に似ており、鼻は赤く、日本での人魚のイメージとはかけ離れているので河童に置き換えて訳したとのこと。上述のように芥川の河童たちは「q」を多く発音します。人魚を河童に置き換えて、その名を「クー」にしたのは、芥川の『河童』を意識してのことでしょう。片山の河童は芥川の河童のようには鋭くなく、少し間が抜けていて親しみやすいです。鋭い死に方をした芥川に対する鎮魂のようにも読めます。

火野葦平も河童好きで、生まれ故郷の北九州若松map→の家を「河伯洞」( 河伯 かはく は河童のこと)と呼ぶほどでした。火野の『河童曼荼羅まんだらAmazon→には43篇の河童の悲喜劇が綴られています。

河童の図 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:青空文庫/折口信夫/『河童の話』→ 原典:小堀平七氏蔵作品 芥川がいくつも描いた河童の絵より ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』
河童の図 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:青空文庫/折口信夫/『河童の話』→ 原典:小堀平七氏蔵作品 芥川がいくつも描いた河童の絵より ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』

大正4年、川端龍子(30歳)らと「珊瑚さんご会」を結成した小川 芋銭うせん (47歳)という画家がいます。芋銭は茨城県 牛久沼うしくぬま map→のほとりで農業をしながらひたすら河童の絵を描き、「河童の芋銭」と呼ばれました。芋銭は牛久沼で河童を本当に見たと主張していたようです。龍子は芋銭が生きているうちは彼を立ててか河童は描かず、昭和13年に芋銭が亡くなってから盛んに描き出します。

初代「黄桜カッパ」を描いたのが、清水 こん 鎌倉在住時は川端康成らとも交流があり、貸本屋「鎌倉文庫」の絵なども描いています。2代目「黄桜カッパ」を描いのが、小島 こお。清水の河童妻は家庭的な感じですが、小島のはエロさが増量されてますね。●Kizakura/カッパ家族の自己紹介→

小川芋銭の「水虎とその眷属」より ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:UAG美術家研究所/喜多方美術倶楽部の結成と小川芋銭→ 川端龍子の「沼の饗宴」より。横7m以上の大作だ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『川端龍子(現代日本の美術)』(集英社)
小川芋銭の「水虎とその眷属」より ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:UAG美術家研究所/喜多方美術倶楽部の結成と小川芋銭→ 川端龍子の「沼の饗宴きょうえん」より。横7m以上の大作だ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『川端龍子(現代日本の美術)』(集英社)

美空ひばりのデビュー曲は「河童ブギウギ」(昭和24年発売。Youtube→)なんだそうです。作詞は当地(東京都大田区)にゆかりある藤浦 洸

しかし、みんな、ほんと河童好きですねぇ〜

石田英一郎 『河童駒引考 〜比較民族学的研究〜(新版) (岩波文庫) 』 石川純一郎 『河童の世界』(時事通信社)
石田英一郎 『河童駒引考 〜比較民族学的研究〜(新版) (岩波文庫) 』 石川純一郎 『河童の世界』(時事通信社)
芥川龍之介 『河童 他二篇 (岩波文庫) 』 水木しげる『河童シリーズ[全]〜水木しげる漫画大全集(1)〜 (コミッククリエイトコミック)』(講談社)
芥川龍之介『河童 他二篇 (岩波文庫) 』 水木しげる『河童シリーズ[全]〜水木しげる漫画大全集(1)〜』(講談社)。その多くが火野葦平の短編集『河童曼荼羅まんだら』43編から材を取っている

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
片山広子の『翡翠』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
藤浦 洸の『らんぷの絵』を読む→

■ 参考文献:
●『折口信夫(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.66-69 ●『遠野物語(新版)(角川ソフィア文庫)』(柳田國男 初版発行昭和30年 平成19年発行新版10版参照)P.37-39 ● 『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照)P.7-12、P.30、P.104、P.112 ●『槍が岳に登った記』(芥川龍之介 明治44年頃)青空文庫→ ●『河童のクウさん 〜片山広子単行本未収録訳文集〜』(原文:T・クロフトン・クローカー、レティシア・マクリントック他、編:未谷おと 西方猫耳教会)P.110 ●『川端龍子(現代日本の美術)』(作品解説:村瀬雅夫 集英社 昭和51年発行)P.122

※当ページの最終修正年月日
2022.6.20

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