(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この本の著者・藤浦 洸の「洸」は、どう読むでしょう?
ペンネームとしては「こう」でいいのだが、本名では違う。

藤浦は、あまり使われない漢字「洸」を名前に持ち、さらには一般的でない読み方だったため、いろいろな目にあった。

活版屋に「洸」の活字がなかったためか作品が雑誌に掲載されなかったり(仮名書きにしたら掲載された)、先輩作家たちから 「恍さん(ぼけさん)」、 「絖さん(ぬめさん)」 と呼ばれ、からかわれたり・・・。

しかし、一番痛かったのは、罪のない誤読だった。 藤浦は少年の頃、新任の教師に「洗(あらう)」 と呼ばれてしまう。以後、藤浦少年は、喧嘩相手から「あらう!」「あらう!」 とからかわれたらしい。

藤浦は「あらう」と呼ばれるのが、ことのほか辛かった。

その頃、藤浦は、長崎県の平戸島Map→で祖母と二人暮らしで、祖母は人様の汚れ物を洗濯する仕事で生活を支えていた。 藤浦少年は「あらう」とからかわれるたびに、祖母を侮辱されたように感じたという。

これには後日談があって、

・・・中学三年のとき、祖母が八十歳の高齢で死んだ。死ぬ前日まで、ぴんぴんしていて、相変わらず他人の汚れ物を洗っていた。手で汲む井戸なので、転んで胸を打ったのが原因だった。 私はそのとき「ふじうらあらう」といわれても、もう悲しむまいと決心した。・・・(「名前の自叙伝」より ※ 『らんぷの絵』に収録)

とのこと。

笑い話もある。

「洸」の名は、東京に出てからは「こう」と読まれ、ラジオやテレビでもそう呼ばれた。印刷物にも「こう」とルビが振られ、そうなるともう、「洸」を正しく読む人なんていない。

ある日、藤浦の従兄弟が藤浦家を訪ねて来た。従兄弟は藤浦の名を正しく読んで 「●●●は、家にいるか?」 と藤浦の妻に尋ねたという。しかし、藤浦の妻は首を傾げてしまう。 そして真顔で「そんな名前の人は知らない」と答えてしまうのだった。妻までが正しい呼び名を忘れてしまっていた!

さて、ところで、「洸」の正しい読み方はといえば、・・・・・・・・「たかし」である。これは読めませんね!?

以上は、『らんぷの絵』の中の「名前の自叙伝」というエッセイからのお話でした。

このエッセイ集『らんぷの絵』には、こういった、著者のとっておきの話が詰まっている。


『らんぷの絵』について

藤浦洸『らんぷの絵』

昭和47年東京美術より発行された藤浦 洸(73歳)のエッセイ集。

書名の「らんぷの絵」には、ランプの火の下で祖母と2人で過ごした「どうして生きてゆけたか、考えられないくらい貧しかった」時代への愛惜が込められている。後年、藤浦は、色紙を頼まれると、「故旧不忘」と書いてランプの絵を添えたそうだ。そこらへんのことを書いた「らんぷの絵」というエッセイも収められている。


藤浦 洸について

藤浦 洸 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 〜あの頃、馬込は笑いに充ちていた〜』(東京都大田区立郷土博物館)
藤浦 洸 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 〜あの頃、馬込は笑いに充ちていた〜』(東京都大田区立郷土博物館)

小説を書いたり、ピアノを弾いたり
明治31年9月1日(1898年)、長崎県平戸のオランダ商館跡Map→の一角に建つ家で生まれ、そこで少年期を過ごす。父親は藤浦が生まれて間もなく腸チブスで亡くなり、母親は生計を立てるために京都大学病院の看護婦になる。藤浦は洗濯業を営む祖母と暮らす。中三の時、祖母を失い、姉を頼って岡山に移転。同志社大学神学部に入学するが1年で中退、3年間の放浪の末、上京して慶應大学に入学。教師に小島政二郎がいた。在学中より、児童小説・少女小説を書いたり、オペラ館のピアノ奏者をしたりした。

当地で尾侮m郎らと交流
昭和2年(28歳頃)慶應大学卒業、詩を書いたり、伊庭 孝に師事して浅草オペラの俳優をしたり、家庭教師をしたりしていた。慶應在学中から、当地(東京都大田区山王四丁目11 Map→)に建つ家の2階に住み、今井達夫尾侮m郎榊山 潤牧野信一、吉田甲子太郎きねたろう山本周五郎、保高徳蔵、松沢太平(広津和郎の義弟。当地で「チップトップ」という本屋をやっていた)らと交流、同人誌「新文学準備倶楽部」(昭和4年発行。編集の「没落時代」の後継誌。1号で廃刊)、同人誌「報告」(昭和6年創刊)に参加する。

昭和5年(32歳)、コロムビアレコードに所属、 ジャズの歌を訳したり、歌謡曲の作詞などをした。当地時代の藤浦は貧しかったが、お洒落で、当時では珍しいテリアを飼ったり、小型撮影機(パテ・ベビー)を回したりしたのは、日本初の海外貿易港のあった平戸に生まれ、オペラ館に出入りし、レコード会社に所属するなどして、舶来の文化に接する機会が多かったからだろう。

人気作詞家となる
コロンビアレコードでは文芸部長の秘書という曖昧な立場だったが、同社所属の作曲家・服部良一と意気投合し、「日本のブルース」を生み出そうとした。横浜本牧の私娼街をモチーフにした「別れのブルース」を作詞、服部が作曲し、淡谷のり子が歌って大ヒット(昭和12年、藤浦39歳 NDL→ YouTube→)。ヒットを祝う会では、参加できなかった淡谷の代わりに藤浦自らが歌い、服部に深い感銘を与えた。その頃コロンビアレコードの宣伝部にいた高見 順も、藤浦が歌う「別れのブルース」を聴いている。

その後、藤浦は、人気作詞家となった。

戦後も、美空ひばりが歌ってヒットした「悲しき口笛」(昭和24年、藤浦51歳、作曲:万城目 正 NDL→ YouTube→)、おなじみの「ラジオ体操の歌」(3代目。昭和31年〜 歌詞→ YouTube→)などを作詞。

NHKの「二十の扉」(昭和22〜35年)、「私の秘密」(昭和30年〜42年)のレギュラーとしてラジオやテレビでも活躍。日本作詞家協会会長、日本文芸家協会会長、日本訳詩家協会会長、日本詩人連盟相談役などを歴任した。

当地の千鳥町(東京都大田区千鳥町一丁目2-33 Map→)にも住んだ。

昭和54年3月13日(1979年)、満80歳で死去。 墓所は、故郷の雄香寺ゆうこうじ(長崎県平戸市大久保町2166-1 Map→ ) ( )。

作家別馬込文学圏地図「藤浦 洸」→

『別れのブルース 〜淡谷のり子──歌うために生きた92年〜(小学館文庫)』。ヌードモデルをして家計を支え、軍部の圧力も跳ね返し、歌う 「東京キッド」(松竹)。監督:斎藤寅次郎。主題歌の「東京キッド」(作詞:藤浦 洸、作曲:万城目 正)を主演の美空ひばりが歌う
『別れのブルース 〜淡谷のり子──歌うために生きた92年〜(小学館文庫)』。ヌードモデルをして家計を支え、軍部の圧力も跳ね返し、歌う 「東京キッド」(松竹)。監督:斎藤寅次郎。主題歌の「東京キッド」(作詞:藤浦 洸、作曲:万城目 正)を主演の美空ひばりが歌う

参考文献

●『らんぷの絵』 (藤浦 洸 東京美術 昭和47年発行)P.125-126  ●「藤浦 洸」※「20世紀日本人名事典」(日外アソシエーツ 平成16年発行)に収録コトバンク→ ●『大田文学地図2(染谷孝哉遺稿)』(城戸 昇編 文学同人眼の会叢書)P.34-39 ●『海風』(藤浦 洸 日本放送出版協会 昭和57年発行)P231-234、P.318-321(「新文学準備倶楽部」「酒徒随想」) ●「日本出版大観」(出版タイムス社 昭和5年発行)P.178-181 ●『日本及日本人』(政教社 昭和4年発行)P.91(「文壇噂話」) ●『馬込文士村』(榊山 潤 東都書房 昭和45年発行)P.14-15 ●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.26-27、P.204-208 ● 『山本周五郎 馬込時代』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.55-56 ●『ぼくの音楽人生』(服部良一 中央文芸社 昭和57年発行)P.137-152

謝辞

●平戸在住のあごかぜ様(町田美装工芸社→)から、藤浦 洸の命日や墓所についての情報をお寄せいただきました。ありがとうございます。
●平戸市観光商工課が平戸図書館を紹介してくださいました。平戸図書館の館長様はじめK様、その他スタッフの方々が藤浦 洸関係の文献・詩碑などの情報を洗い出し、ポイントをご教示くださいました。ありがとうございます。 平戸ウェブシティ→

※当ページの最終修正年月日
2025.2.26

この頁の頭に戻る