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えげつなき洗脳機関(昭和18年11月18日、徳田秋声、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳田秋声

昭和18年11月18日(1943年。 徳田秋声(71歳)が死去しました。肋膜ガンでした。

死去する2年前の昭和16年6月28日から秋声は「都新聞」(のちの「東京新聞」)に『縮図』を連載していました。作家と芸者の交流を描いた作品です。ところが同年9月15日の連載80回目で打ち切られます。連載中、「情報局」から新聞社に時局をわきまえるようにとの圧力がかかり、そのことを新聞社から聞いた秋声は、「妥協すれば作品は ぬけになる。にわか に立場を崩す訳にも行かないから」と、自ら筆を折ったのです。その後秋声は筆を取らず、『縮図』が彼の最後の作品となりました。

『縮図』は未完ながら敗戦1年後の昭和21年単行本になります。この作品を、広津和郎は「短い言葉の間に複雑な味を凝縮させながら、表現の裏側から作者の心の含蓄がんちくをみじませてゐる技巧の完成」と激賞、川端康成も「近代日本の最高の小説であることは疑ひない」と最大限の賛辞を送りました。文芸評論家の野田宇太郎は、圧力がかかった時、時局を“わきまえ”て筆を つな いでいたら「作家秋声は死んだだろう」と書いています。「情報局」という統制機関が、珠玉の作品を闇に葬ろうとした歴史の事実を知っておかねばなりません。

『縮図』では、物語の運びとともに、執筆当時(昭和16年頃)の風俗とその背景も描出され、そこに秋声の批評眼が光っています。

・・・この裏通りに巣っている花柳界かりゅうかいも、時に時代の波を被って、ある時は彼らの洗練された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢おういつにつれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤のおかしさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育まれてきたさすが時代の寵児ちょうじであっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎などとともに日本のほこりとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興のかげ、時局的な統制の下に、軍需景気のあおりを受けつつ、上層階級の宴席に持てはや され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返してきたのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。・・・(徳田秋声『縮図』より)

日中戦争を始めるや政府は「国民精神総動員」(昭和12年9月〜)という政策を打ち出し、遊興にふけたり、贅沢したりするのを戒めるようになりますから、その最たるものとして花柳界が標的になったとも考えられますが、それ以上に、戦争遂行の要となる政界や産業界がその花柳界と深い繋がりがあることをズバリ指摘した上のような文章が「極めてよろしくなかった」のでしょう。次のような文章もあります。

・・・時々警察の調査があり、抱えの分をよくするような建前から、規定の稼ぎ高の一割五分か二割を渡す・・・(徳田秋声『縮図』より)

・・・その辺りでもどうかすると、ひどく 戦塵せんじんに汚れやつ れた傷病兵の出迎えがあり、乗客の目を痛ましめたが、均平もこの民族の発展的な戦争を考えるごとに、まず兵士の身のうえを考える方なので、それらの人たちを見ると、つい感傷的にならないわけにいかず、おのずと頭が下がるのであった。・・・(徳田秋声『縮図』より)

こういった官憲の不正行為や個人主義的な視線も、「行け、進め、撃ち殺せ!」と国民を誘導しようとした当局としては極めて都合がよろしくなかったことでしょう。ちなみに同時期に書かれた川端康成の『雪国』(昭和10〜22年)にも芸者が出てきますが、秋声の『縮図』とは対照的に、昭和12年政府お墨付きの「文芸懇話賞」を受賞しています。芸者がダメなら『雪国』もダメだったはずです。良心を持って現実を描出すればそれがすなわち体制批判にもなった時代、川端は“上手くやった”のですね。

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出版統制は、明治26年に公布された「出版法」と、明治42年に公布された「新聞紙法」などによってなされてきました。あらゆる出版物は発行3日前までに内務省に届けと見本を提出し許可を得なくてはならず、検閲され、皇室の尊厳の冒涜 安寧あんねい秩序の妨害風俗の壊乱かいらん などに当たると判断されると、発売が禁止され(発禁)、印刷する版と刷り上がった印刷物が差し押さえられるとともに、発行者、著者、印刷者を罰金刑や禁固に処するといった極めて厳しい内容をもつ悪法中の悪法です。「出版法」が公布された明治26年は日清戦争の1年前で、「新聞紙法」が公布れた明治42年は「明治43年のフレームアップ事件」(「大逆事件」というネーミングは事件の本質を見誤らせる)、「韓国併合」の1年前です。“悪さ”する前に批判の口封じの方策も用意しておいたのでしょう。

日本近代詩史上の金字塔的作品『月に吠える』(萩原朔太郎)も、当初「風俗の壊乱」を理由に発禁の通達を受けています。原稿の段階での「事前検閲」ではなく、出版物が完成してからの「事後検閲」であり(発行6日後に発売禁止の通達があった)、著者のみならず出版社、印刷業者、製本業者などに大きな精神的・経済的ダメージを与えるものでした。この意地悪で見せしめ的な処遇は、世界でもほとんど例がなく、ナチス・ドイツの言論弾圧をしのぐ悪質さとされます。禁止事項の「皇室の尊厳の冒涜」「安寧秩序の妨害」「風俗の壊乱」の定義も曖昧で、いかようにも解釈でき、好き勝手に運用できるので、極端な話、「こいつ気に入らない」となれば、この法律で陥れることができました。これらの悪法が、著者や出版社や印刷会社を縮み上がらせ、当局から目をつけられないように、無難であたり触りのない表現へと表現者を導きます。伏字には、そんな状況下で、出版界が自己防衛のために編み出したという側面があります。

そして、この時代、威勢のいいことを言いたい人たちは、尾﨑士郎のようにどんどん右傾化していきました。軍国主義的、反民主的、天皇主権的なことを言っている分にはよっぽどでない限り当局はお目こぼしだったでしょう。

そして、日本がアジア太平洋戦争を始める1年前の昭和15年、出版統制のさらなる強化を目指し、内閣情報部、外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課などが一元化した統制官庁「情報部」が設置され、144名の職員が配属されます。そして、検閲・統制の他、マスコミ・文化・芸能に くちばし を挟みまくり、それらを統合、挙国一致的な思想を国民に刷り込んでいきました

当地(東京都大田区大森)に住んでいた井上司朗は、内閣情報部から、昭和15年にできた「情報局」に配属されて文化統制の中心・第五部第三課(後の文芸課)の課長になって(井上37歳頃)、出版界に影響力を持ちました。秋声の『縮図』への圧力にも井上の判断が含まれたことでしょう。名著『たった一人の山』(浦松佐美太郎 Amazon→)が出版されたのは、『縮図』の連載が始まったのと同じ昭和16年の6月で、この本は戦争中でありながら4ヶ月で3刷まで出す勢いで読まれましたが、当局と出版社との「懇談会」の席で、井上が「滅私奉公を要求する聖戦下で『たった一人の山』とは何事か。欧米的な個人主義に毒された本は抹殺すべき」とまくしたてたのをきっかけに、出版社(文藝春秋)は自主的に絶版にしています(事実上の発禁)。印刷用紙の配分の実権を握っていた「情報局」に出版社は首根っこを押さえられていました。井上も山に登る人で山の本も出しています。堂々たる山歴を持ち、本も売れている浦松のことが妬ましかったのかもしれませんね。

里見 脩『言論統制というビジネス 〜新聞社史から消された「戦争」〜 (新潮選書)』 佐藤卓己『言論統制 〜情報官・鈴木庫三と教育の国防国家〜(中公新書)』
里見 しゅう 『言論統制というビジネス 〜新聞社史から消された「戦争」〜 (新潮選書)』 佐藤卓己『言論統制 〜情報官・鈴木庫三くらぞう と教育の国防国家〜(中公新書)』
紅野謙介 『検閲と文学 (河出ブックス) 』) 石川達三『風にそよぐ葦(上) (岩波現代文庫)』。出版弾圧下の苦難
紅野こうの 謙介『検閲と文学 (河出ブックス) 』) 石川達三『風にそよぐ葦(上) (岩波現代文庫)』。出版弾圧下の苦難

■ 馬込文学マラソン:
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
井上司朗の『証言・戦時文壇史』を読む→

■ 参考文献:
●「徳田秋声 〜作家と作品〜」(野田宇太郎)P.439-440 ※『徳田秋声集(日本文学全集8)』(集英社 昭和42年初版発行 昭和49年発行8刷)に収録 ●『十五年戦争下の登山 〜研究ノート〜』(西本武志 本の泉社 平成22年初版発行 同年発行2刷参照)P.202-207、P.224-233 ●『証言・戦時文壇史』(井上司朗 人間の科学社 昭和59年発行)P.8-9

※当ページの最終修正年月日
2023.10.26

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