上:岩手山登山を終えた宮沢賢治 左:妙義高原でのスキー大会時の辻まこと 右:赤城山登山時の折口信夫 下:富士登山時の志賀直哉 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』、ヒンドゥ-クシ海峡をこえて ~三千世界の逍遥遊、この世の果てから路地裏まで/昭和の漂泊者《辻まこと・父親辻潤》→、『折口信夫(新潮日本文学アルバム)』、『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』
明治43年9月23日(1910年。
~24日、宮沢賢治(14歳)が県立盛岡中学(現・盛岡第一高等学校 Map→)の博物学の教師に連れられて数名と岩手
山
(Map→)に登っています。賢治は体育が苦手でしたが、山では疲れを見せず皆を驚ろかせました。この頃から賢治は自然にのめり込んでいきます。
賢治は盛岡中を卒業後、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に進学し、その後、
稗貫
農学校(後の花巻農学校)の教諭になりますが、在学、在職時、合わせて数十回、岩手山に登ったようです。教え子を連れていくこともありました。
岩手山
そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くえぐるもの
ひしめく微塵の深みの底に
きたなくしろく澱むもの (賢治の詩稿より)
「美しい」とかいった陳腐な言葉では表しえない存在感を、賢治はそう表しました。
明治42年8月、芥川龍之介(17歳)が、東京府立三中(現・東京都立両国高等学校 Map→)の同級生3人と北アルプスの槍ヶ岳(Map→)に登っています。その頃の槍ヶ岳は今のように登山道が整備されておらず、芥川らは案内人をつけてはいましたが、ある程度の覚悟が必要だったことでしょう。2年後(明治44年)、芥川(19歳)はその時のことを書いています。
・・・上りはじめて少し驚いた。路といってはもとよりなんにもない。魚河岸へ鮪がついたように雑然ところがった石の上を、ひょいひょいとびとびに上るのである。どうかするとぐらぐらとゆれるやつがある。おやと思ってその次のやつへ足をかけるとまたぐらりとくる。しかたがないから四つんばいになって猿のような形をして上る。その上にまだ暗いのでなんでも判然とわからない。ただまっ黒なものの中をうす白いものがふらふらと上ってゆくあとを、いいかげんに見当をつけてはって行くばかりである。心細いことおびただしい。おまけにきわめて寒い。昨夜ぬいでおいたたびが今朝はごそごそにこわばっている。手で石の角をつかむたんびに冷たさが毛糸の手袋をとおしてしみてくる。鼻のあたまがつめたくなって息がきれる。はっはっ言うたびに口から白い霧が出る。・・・(芥川龍之介『槍ヶ岳に登った記』より)
芥川は『槍ヶ岳紀行』というのも書いています。2作とも雷鳥に出会うところで唐突に終わっていることから推測するに、登頂はかなわなかったのではないでしょうか。芥川の最晩年の作品『河童』の舞台は、槍ヶ岳の登山口にあたる上高地です。若い頃の登山体験が生かされたことでしょう。
辻まことは登山家といっていいほど山に入っていますが、特に山頂を目指すわけでもなく、一人、スキーや徒歩で気が赴くままに山をさまよったかのようです。「どこに登った、何座登った、誰と登った」かは、辻にはどうでもいいクダラヌコトだったことでしょう(「インスタ映えするから」などは論外)。
志賀直哉の『暗夜行路』の終わりの方に、鳥取の大山
(Map→)に登る印象的な場面があります。この登山の最中に、主人公・謙作の心の“暗夜”に
曙光が差します。志賀は大正3年頃(31歳頃)、実際に大山に登ったようです。
志賀直哉は明治35年頃(19歳頃)、矢内原忠雄も大正8年(20歳)、富士山(Map→)に登っています。矢内原は一人で登っています。
ピークハントに飽
いたら、「自分流の登山」を試みてはどうでしょう。日本の山はどこもかしこも登り尽くされた感がありますが、工夫次第で、新しいプロジェクトになるかもしれません。
「天降
り着く神々」を探求した折口信夫は、地図に赤い直線を一本引き(“神”は道なんて
辿
らないのだろうから)、それをなるべく忠実にたどるといった個性的な歩き方をしています。何度も遭難しかかったというので
真似
ることはできませんが。
往年の名クライマー遠藤甲太氏が、中学生の息子をつれて多摩川の河口から水源までの138Kmを遡っています。
下で紹介した『新釈 日本百名山』の著者・樋口一郎氏は、薮山
の達人です。地図とコンパスを頼りに、道なき薮山に分け入るといった「豊かな登山」をされて来ました。初心者が真似すると遭難するので、これも簡単には真似られませんが。
エベレストに登ったというだけでTVなどでは大げさに持ち上げるのかもしれませんが、エベレストに登ること自体は、すでに多くの人が達成しており、珍しいことではありません。これからエベレストを目指すとしたら、「海抜0Mから」「ポーターを雇わないで荷物をずっと自分でしょって」「酸素ボンベを使わないで」「固定ザイルを使わないで」「厳寒期に」「一人で」「バリエーションルートから」といったスタイルにこだわらないと、もう面白くないですね?
萩原朔太郎は、赤城山、榛名山、妙義山といった名山に囲まれた群馬県前橋(千代田町二丁目1-17 Map→)の出身ですが、それらに登った記録は残っていないようです。それでも彼のイマジネーションは、山頂へと。
山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんで居た。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、・・・(中略)
・・・おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ
(萩原朔太郎「山に登る」より)
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深田久弥『日本百名山 (新潮文庫)』。読み継がれている名著。読むも良し、登るも良し、読んで登るはなお良し。深田は「新思潮」系の小説家としても著名 |
樋口一郎『 新釈 日本百名山』(東京新聞出版局)。深田の『日本百名山』を読んでからこれ。様々な切り口で山々のキャラクターを見事に捉えた一書 |
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ウィンパー『アルプス登攀記 下 (岩波文庫)』。訳:浦松佐美太郎
。6年の歳月をかけて征服されたマッターホルン、しかし・・・。訳者の浦松は戦前問題になった『たつた一人の山』の著者 |
串田孫一『山のパンセ (ヤマケイ文庫)』。「・・・両手をひろげて立ちふさがるような困難が、それを充分に検討したあげく、充分に乗り切れる自信がこちらに湧いて来た時、どれほど胸をさわがせ、高鳴らせるものか・・・」 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 芥川龍之介の『魔術』を読む→
・ 辻まことの『山の声』を読む→
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
■ 参考文献:
●『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行) P.10-15、P.105 ●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照)P.104 ●『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.8 ●『山の旅(明治・大正編)(岩波文庫)』(近藤信行編 平成15年発行)P.48-74 ●「朔太郎と山」(正津 勉) ※「東京新聞(夕刊)」(平成28年8月2日)に掲載 ●「槍ヶ岳に登った記」(芥川龍之介)(青空文庫→) ●「槍ヶ岳紀行」(芥川龍之介)(青空文庫→)
※当ページの最終修正年月日
2024.9.23
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