※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/新田義興(令和3年9月13日更新版)→ 原典:歌川国芳の浮世絵
正平
13年10月10日(1358年。
新田義興
(28歳)が、多摩川の「矢口の渡し」(東京都大田区矢口三丁目17-3 Map→)で謀殺されたとされています。
義興は、新田義貞の次男ですが、1337年、長男の
義顕
が戦死したあと
嫡子
扱いされたのは、三男の
義宗
でした。義興が正妻の子でなかったからでしょうか。しかし、1336年に楠木正成、1338年に北畠顕家と義貞、1339年に後醍醐天皇と立て続けに南朝側の中心人物が死去すると、残る南朝側の武将として、義興も、北朝や足利幕府が最大限に警戒する一人になっていきます。
かたや、足利尊氏は鎌倉を奪還した後、1353年、北方の義興らを警戒して、鎌倉府を
武蔵国
入間川
に移し(入間川の陣。場所は「徳林寺の旧境内」(埼玉県狭山
市入間川二丁目19北 Map→)など諸説ある)、四男の
基氏
(14歳)を関東管領として在陣させ、
畠山国清
(年齢不詳)を執事としました。
義興が、弟の義宗、従兄弟の脇屋義治
らと越後国(現在の佐渡を除く新潟県)で再起の時を待っていると、1358年、尊氏が死去。これを機に室町幕府転覆の挙兵を要請する声が各方面から興り、義興は100人ほどを連れて密かに武蔵国に入ります。それを知って恐れおののいたのが国清。腹心の・竹沢
右京亮
を使って謀ろうとします。竹沢は元は義興側の人だったので、再び寝返ったふりをして義興にとり入り、半年後、信用を得たところで、鎌倉奪還の話を持ち出して義興を誘い出したとされています。
そして10月10日、義興と12人の従者が、多摩川を東京都大田区側から神奈川県川崎側へ渡ろうという川中にあって、竹沢の息がかかった船頭が船底に仕掛けた穴の栓を抜き、船が沈みかかったところを、川崎側に潜んでいた江戸遠江守(竹沢とは親戚)の300騎が、一斉に射かけます。大田区側に戻ろうとすると、今度は大田区側に潜んでいた竹沢の150騎が射かけたようです。川崎側の岸からは嘲
りの声が興ったとか・・・。
謀られたと知ったときは、時すでに遅し。13人の最期を記す「太平記」の一節は凄まじいです。
さる程に、水、舟に涌き入りて、腰中ばかりになりける時、井伊弾正、兵衛佐殿を抱き奉り、中に差し上げたれば、武衛、「安からぬものかな。日本一の不当人どもに猷かられつる事よ。七生までも、汝らがためにこの恨みを報ずべきものを」と怒つて、腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで、掻き廻し掻き廻し、二刀まで切り給ふ。井伊弾正、その腸を引き切つて、川中へ投げ入れ、己れが喉笛、二刀掻き切つて、自ら髪束を掴み、己れが頸を後ろへ折り付くる。その音、二町ばかりぞ聞こえける・・・(『太平記』第三十三巻8(校注:兵藤裕己
)より)
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義興を祀る「新田神社」(東京都大田区矢口一丁目21-23 Map→ Site→)の狛犬。謀殺した側の人間が近づくと唸るという。当社には義興を埋葬したという
御塚
もある(Photo→)。平賀源内(1728-1780)がこの塚の竹で破魔矢を作り、今に伝わる |
頓兵衛
地蔵(東京都大田区
下丸子
一丁目1-19 Map→)。頓兵衛は義興の船に細工した船頭の名。義興のたたりで地蔵はとろけ「とろけ地蔵」とも。頓兵衛は、源内らが書いた人形浄瑠璃『神霊矢口渡』(NDL→)で創作された人物 |
13人の首を取った竹沢と江戸は、基氏や国清を喜ばせ、新たに所領を得ます。ところが、江戸が新たな所領に向かう途中「矢口の渡し」近くに来ると、額に角のある馬に乗った義興の怨霊が現れます。江戸は矢を打ち込まれ、7日間、水に溺れたように手足をバタつかせつつ死んでしまった、と『太平記』は記しています。岩波文庫版「太平記(五)』(Amazon→)に義興謀殺の下りがあります。
『太平記』は、後醍醐天皇の即位(1318年)あたりから、
足利幕府2代将軍・義詮が政務を3代・義満に譲るあたりまでのおよそ50年間の動乱を描いた軍記物で、最初30巻ほどだったのが、30年ほどの間に複数の人によって加除修正され、1371年頃に全40巻になって完結。多くの古典がそうであるように原本は残っておらず、複数の写本が残るのみで、それらも微妙に異るとのこと。
鎌倉幕府が滅ぼされ後醍醐天皇の新政となるものの直ぐに鎌倉幕府を滅ぼした同士の新田と足利が対立、足利幕府が成立して朝廷が南北に分裂するといった血で血を洗う乱世をへて、ようやく「太平」の兆しが見えたところで物語は閉じます。第21巻で後醍醐天皇が没すると(1339年)、その後、物語に怨霊がたくさん登場するようになります。かつて白河院が天下泰平を祈願して建立した法勝寺(現在、旅館「京都白河院」(京都市左京区岡崎法勝寺町16 Map→))の五重塔が火災にあったとき炎の中に鬼か天狗かが現れたり、楠木正成に腹を切らせた大森彦七の前に美しい女の姿の鬼が現れたり(彦七が女を負ぶうと、目が赤く口の裂けた巨大な鬼に変貌)。1350年より幕府内で内紛(「
高 師直とその主君・尊氏」と「師直を快く思わない上杉・畠山とその主君の直義(尊氏の弟)と直義が担いだ直冬(尊氏の子)」の争い。「観応の擾乱」)があると、『太平記』ではそれも南朝側の怨霊が仕組んだものとします。さらには尊氏死去後の、幕府側の仁木義長、細川清氏
、畠山国清らの離反も南朝側の怨霊が関わったとし、それも正当化(辻褄合わせ)しています。
「怨霊」は、権力者サイドが
創作
し、または妄想
し、時には恐れられ(忌避され)、時には利用されもしてきたのでしょうね。
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『太平記(新潮古典文学アルバム)』。著:島田雅彦、大森
北義
。『太平記』の概略と時代背景を、写真と図入りで紹介。『太平記』は2人の僧侶(恵鎮、玄恵)を中心に編纂された動乱の世を嘆く「説教文学」 |
佐藤進一『南北朝の動乱(中公文庫)』。南北に分かれた朝廷のそれぞれを担ぐ勢力同士が絶え間なくぶつかり合う。楠木正成ら「悪党」(旧勢力側からの呼称)や佐々木道誉らサバラ大名などの新興勢力も入り乱れ |
■ 参考文献:
●「新田義興の憤死とその背景」(新倉善之) ※『大田区史(上巻)』(東京都大田区 昭和60年発行)P.724-746 ●『太平記(新潮古典文学アルバム)』(島田雅彦、大森北義 平成2年発行)P.2-8、P.38-39、P.60、P.62-63、P.66-67、P.70-73、P.108-109 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド 11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.113-124 ●「太平記」(釜田喜三郎)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)に収録 ●「師直まで(文庫版あとがき)」※『バサラ将軍(文春文庫)』(安部龍太郎 平成10年初版発行 平成25年発行2刷)に収録 ●新田神社内の案内板 ●「平賀源内が書いた人形浄瑠璃は歌舞伎『神霊矢口渡』となる」(樋口和則)(馬込と大田区の歴史を保存する会→) ●「頓兵衛地蔵」(日本伝承大鑑→)
※当ページの最終修正年月日
2024.10.10
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