{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

28歳で無念の死(正平13年10月10日、新田義興、「矢口の渡し」で謀殺される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沈みゆく船で最期を遂げる新田義興 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/新田義興(平成27年9月11日更新版)→ 原典:歌川国芳 画

 

正平しょうへい13年(延文3年)10月10日(1358年。 新田義興にった・よしおき (28歳)が、多摩川の「矢口の渡し」(現・東京都大田区矢口三丁目 map→)で謀殺されました(異説あり)。

義興は新田義貞の次男でしたが、妾の子で義貞からあまり可愛がられなかったようです。でも、後醍醐天皇からは目をかけられ、また、勇将の誉れも高く、初代 鎌倉公方 かまくらくぼう (鎌倉の将軍の代理)・ 足利基氏 あしかが・もとうじ (尊氏の子)や、関東管領 (鎌倉公方の補佐役)・ 畠山国清 はたけやま・くにきよ らを脅かす存在だったようです。

国清は、元新田の家臣で江戸遠江守とおとうみ・の・かみ長門ながと?、高重(長門の長男)?、高良?) のとしなしで足利に寝返った当地(現・東京都大田区六郷)の豪族・竹沢 右京亮 うきょうのすけ に、義興の殺害を命じます。 右京亮は、1年かけて新田に再び寝返ったふりをして、信用されたところで、「足利尊氏が亡くなったので鎌倉奪還のチャンス到来」と義興をそそのかしたとのこと。右京亮は今でいうスパイ・密偵・工作員ですね。

義興は右京亮の言葉を信じ、12騎の従者とともに、配下の兵2,000人が身を潜めて待つ鎌倉を目指しました。

ところが、多摩川の「矢口の渡し」を、小舟で、川崎側に渡る最中のこと、右京亮の息がかかった船頭の 頓兵衛とんべえ に船底に仕掛けられた穴の栓を抜かれます。小舟はみるみる沈み始める。右京亮は150の兵を潜ませており、川崎側にも江戸遠江守の兵500が待ち伏せてあり、逃げられません。 謀られたと知ったときは時すでに遅く、義興は船上で自刃して果てることとなります。 従者12名も壮絶な最期を遂げたとされます。

この場面の「太平記」の記述が凄まじいです。

・・・其中そのうちに水が船に湧き入つて腰までも来た時、井弾正ゐのだんじやう (新田義興に仕える執事)は 兵衛佐ひょうえ・の・すけ殿(新田義興のこと)を抱き奉つて宙に差揚げたので、佐殿、「日本一の不道人どもに、詐られたことの腹立たしさよ。七生まで汝等の為めに恨みを報じよう。」と、腰の刀を抜き、左の脇から右の肋骨まで掻き廻し掻き廻し二刀まで切られると、井弾正は はらわた を引切つて河中へがばと投げ入れ、己が喉笛二所刺し切つて髪束を掴み、自分の首を後へ折りつけた、その音が二町ばかり向ふまで聞えた。他の者も皆首を貫いて河中に飛び入つた。・・・(現代語訳 『太平記(国文学全集第十六巻)』(訳:西村真次)より)

その後、竹沢右京亮と江戸遠江守は、足利基氏や畠山国清がいる入間川御所(南朝・義興の攻勢を防ぐため尊氏が基氏に作らせた陣地)に義興や井弾正らの首を運び、恩賞を得て、それぞれの領地に戻ろうとしますが、さっそく異変があります。

・・・江戸遠江守は恩賞を戴いて、其所領地に帰る途中、矢口渡に来ると先の渡守が迎船を出した。河の半ばまで来ると、俄に一天掻き曇つて、浪逆巻き、船が覆つ て、水手梶取一人も残らず水中に沈んだ。遠江守は驚いて引返すと、電閃めき雷が鳴り、現れた義興の霊に矢を射られて死んだ。其後は雷火頻りに落ちて家を焼 き、渡には夜な夜な光る物が出て、往来の人を悩ますので、近隣の者が集つて義興の霊を神と崇め、新田大明神と申して、其祭礼は今に絶えないといふ。誠に不 思議な事である。(同上)

と、新田大明神(新田神社。東京都大田区矢口一丁目21-23 map→)ができるまでの経緯が「太平記」に書かれています。

新田神社の他にも近辺には、義興らの舟を沈めた船頭が悔い改めて作ったという 頓兵衛 とんべえ 地蔵(東京都大田区下丸子一丁目 1-19 map→)、義興とともに討死した従者12名を祀る 十寄 じゅっき 神社(東京都大田区矢口二丁目17-23 map→)などが残っています。延命寺(東京都大田区矢口二丁目26-17 map→)は、当寺に逃げ込んだ江戸遠江守めがけて雷火が落ち、お堂が焼失したとか。

頓兵衛 ( とんべえ ) 地蔵。義興のたたりでとろけたといわれ、またの名も「とろけ地蔵」。『太平記』には、頓兵衛の名は出てこない。平賀源内が浄瑠璃 『神霊矢口渡』 で創作したのだろうか 新田神社の義興の遺体を埋葬した 御塚 ( おつか ) 。 中に立ち入ると祟りがあるという。 平賀源内がここの竹で魔除けの矢を作ったのが、破魔矢の起こりという
頓兵衛 とんべえ 地蔵。義興のたたりでとろけたといわれ、またの名も「とろけ地蔵」。『太平記』には、頓兵衛の名は出てこない。平賀源内が浄瑠璃 『神霊矢口渡』 で創作したのだろうか 新田神社の義興の遺体を埋葬した 御塚 おつか 。 中に立ち入ると祟りがあるという。 平賀源内がここの竹で魔除けの矢を作ったのが、破魔矢の起こりという
頓兵衛 ( とんべえ ) 地蔵。義興のたたりでとろけたといわれ、またの名を「とろけ地蔵」という 新田神社の狛犬。謀殺した側の人間が近づくと唸るという。近づく勇気、ありますか?(笑)
十寄 じゅっき 神社 新田神社の狛犬。謀殺した側の人間が近づくと唸るという。近づく勇気、ありますか?(笑)

------------------------------------------------------

安部龍太郎さんの小説『知謀の淵』は、この新田義興謀殺を題材にした小説です。安部さんが初めて書いた小説のようです。氏は当地の「下丸子図書館(東京都大田区下丸子二丁目18-11 map→」の職員だったことがあり、図書館の館報に載せる記事を書くにあたって近くの新田神社を調べているうちに義興謀殺について知り興味を持ち、小説にしようと思い立ったとのこと。初出は大田区役所の文芸誌のようです(何処かに保管されているでしょうか?)。

『知謀の淵』は、義興をそそのかさざる得ないところまで追いつめられ、謀略に成功したあとも苦しむ右京亮を中心に書かれています。

松原武志『武蔵新田縁起 ~新田義興をめぐる時代背景』(今日の話題社) 佐藤進一 『南北朝の動乱(日本の歴史〈9〉) (中公文庫)』
松原武志『武蔵新田縁起 ~新田義興をめぐる時代背景』(今日の話題社) 佐藤進一『南北朝の動乱(日本の歴史〈9〉) (中公文庫)』
安部龍太郎 『バサラ将軍 (文春文庫)』。新田義興の謀殺を題材にした「知謀の淵」など 『太平記(五) (岩波文庫)』。校注:兵藤 裕己。註釈、説明が分かりやすいと評判。義興謀殺の下りあり
安部龍太郎 『バサラ将軍 (文春文庫)』。新田義興の謀殺を題材にした「知謀の淵」など 『太平記(五) (岩波文庫)』。校注:兵藤 裕己。註釈、説明が分かりやすいと評判。義興謀殺の下りあり
久保田順一『新田三兄弟と南朝 〜義顕・義興・義宗の戦い〜 (中世武士選書28) 』(戎光祥出版)。平成27年刊 『平賀源内集』(有朋堂書店 大正11年刊)。P.463から新田義興の謀殺を題材にした「神霊矢口渡」
久保田順一『新田三兄弟と南朝 〜義顕・義興・義宗の戦い〜 (中世武士選書28) 』(戎光祥出版)。平成27年刊 『平賀源内集』(有朋堂書店 大正11年刊)。P.463から新田義興の謀殺を題材にした「神霊矢口渡」

■ 参考文献:
●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド 11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.113-124 ●『目でみる郷土のうつりかわり(風景編)(大田区の文化財 第十九集)』(東京都大田区教育委員会 昭和58年発行) P.134-136 ●『バサラ将軍(文春文庫)』(安部龍太郎 平成10年初版発行 平成25年2刷参照)P.127-175、P.301-303 ●『大田区史(上巻)』(東京都大田区 昭和60年発行) P.724-726

■ 参考サイト
ウィキペディア/・新田義興(平成26年5月15日更新版)→ ・ 鎌倉公方(平成25年3月21日更新版)→ ・ 関東管領(平成25年8月31日更新版)→ ・ 畠山国清(平成24年4月5日更新版)→ ・ 江戸氏(平成24年8月5日更新版)→ ・ 江戸高重(平成30年9月30日更新版)→ ・ 江戸長門(平成30年9月30日更新版)→ ●大田区の史跡と歴史・デジカメ散策/平賀源内作・神霊矢口渡の悲劇→ 「破魔矢」 発祥の新田神社→ ●新田神社/新田神社について→ ●「新田市」 を誕生させる会。 歴史ある「新田」の名を地名にしよう!/安部龍太郎を歴史小説家へ導いたのは、新田義興だ! 間違いない。→ ●日本伝承大鑑/東京23区/頓兵衛地蔵→ ●J-TEXTS(日本文学電子図書館)/J-TEXTS古典現代語訳/太平記(西村真次 訳)→

※当ページの最終修正年月日
2019.10.10

この頁の頭に戻る