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トルストイに会う(明治28年10月8日、徳富蘇峰、トルストイに会う)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「文豪」と言えば、やはりこの人? ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :http://www.tolstoy-museum.ru/collect/photo.html→

徳富蘇峰

明治29年10月8日(1896年。 徳富蘇峰(33歳)が、1年1ヶ月にもおよぶ海外視察の途上、モスクワの南200kmのヤースナヤ・ポリャーナMap→に住むトルストイ(68歳)を訪ねています。蘇峰は13歳で新島 襄(33歳)から洗礼を受けており、キリスト教の素養がありました。

その頃の蘇峰はちょうど思想的転換期にありました。かつては民権論者でしたが、前年(明治28年)の「三国干渉」 以後、国権論者から次第に強硬な国家膨張論者へと変節していきます。この海外視察も、「世界をして日本を知らしむると同時に、併せて日本が世界を知ること」を目的としましたが、各国との宥和が目的なのではなく、“戦略的”(「他を出し抜く」的)なものだったのでしょう。トルストイから博愛や平和を学ぼうという気などおそらくさらさらなく、世界の著名人にちょっと会っておこうくらいのものだったのではないでしょうか。39年後の昭和10年、蘇峰は700ページに及ぶ自伝を出しますが、トルストイに会ったときのことは、「・・・ヤスヤナポリヤナにトルストイ翁を訪ね」としか書いていません。

徳冨蘆花

蘇峰の弟の徳冨蘆花は、対照的です。

蘆花もちょうど10年後の明治39年(蘆花37歳)、トルストイ(77歳)に会いに行きました。兄弟ともトルストイに会った日本人は徳富兄弟だけなのではないでしょうか。蘇峰は日清戦争後1年して旅に出、蘆花は日露戦争後1年して旅に出たのですね。

明治39年4月に横浜港を出て、まずはパレスチナに赴きイエスの足跡を辿り、その後、トルストイに会いに行きました。蘆花の場合はトルストイに会うことが、旅の大きな目的であり、蘇峰とは気合いが違います。トルストイに憧れに憧れていたのです。 21歳でトルストイの『戦争と平和』を読み感動、28歳でトルストイの略伝まで書いて出版していましたNDL→

トルストイと初めて会った時の感動を次のように書いています。

・・・池をめぐりてやや下れるところかばの木の陰に青塗の狭き板の腰掛あり。余はしばしいこ わむと、コルクのヘルメット帽を枕に、インヴァアネス〔インバネスコート。二重回し、トンビとも〕うち被りて仰向けになり、うとうとといつしか夢心地になりぬ。
 やや久しくして人の近寄る気はいあり。つとめて重きまぶたを開けば、一人の 老翁ろうおうわが側に立てり。庭園の掃除に来し百姓ムウジクおやじかと思いしは一瞬、まがうべくもあらぬおうの顔に、ね起きるより早く「おお、君はトキトミ君」と翁は歯ぬけて子供のごとく可愛ゆき口もとに笑みを崩して手を差伸べ、余は「ああ、あなたは先生」とひし と握りしその手は大にして温かなりき。・・・(徳冨蘆花『巡礼紀行』より)

トルストイとその家族の勧めで蘆花はヤースナヤ・ポリャーナに5日間滞在し、彼らとの親交を深めました。旅行記『巡礼紀行』Amazon→で、蘆花はその時のことだけに56ページほど割いています。

二人はもちろん信仰についても突っ込んだ議論をしています。トルストイにキリスト教徒として大切なことは何かと問われ、蘆花が、釈迦、孔子といった偉大な先覚がいるけれどもイエスは格別、というようなことを言うと、トルストイはやや黙った後、大体のキリスト教徒はイエスを神に祭り上げて偶像化していると憮然とこたえたそうです。どんなに偉大で平和的な人物・イデオロギーであってもそれを絶対視(神化、偶像化)するのは排他性を呼び、しまいには暴力さえも生むと考えたのでしょう。トルストイは非暴力の立場から第一次ロシア革命にも批判的でした。またそういった他からも偉大なものを見出そうとする態度が異端とされ、トルストイはロシア正教会から破門されています(蘆花が訪れる5年前の明治34年)。

感銘を受けた蘆花は、帰国後、東京青山を去って、東京世田谷で晴耕雨読の生活に入ります。

ヤースナヤ・ポリャーナでのトルストイ(手前)と蘆花 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『巡礼紀行(中公文庫)』(徳富健次郎<蘆花のこと>) 東京都世田谷区 粕谷 ( かすや ) 一丁目20-1 map→ site→)は、蘆花が旅の翌年(明治40年)から住んだ所
ヤースナヤ・ポリャーナでのトルストイ(手前)と蘆花 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『巡礼紀行(中公文庫)』(徳冨蘆花 東京都世田谷区 粕谷 かすや 一丁目20-1 Map→ Site→)は、蘆花が旅の翌年(明治40年)から住んだ所

トルストイは、明治37年に起きた日露戦争を「一切の殺生を禁ずる仏教徒」と「世界中の人々は兄弟であり、愛を大切にするキリスト教徒」の無用で愚かで残忍な戦いとし、厳しく批判しました蘆花に対してやや冷たい感じなのは、日露戦争直後に訪ねてきた日本人だったからかもしれません。

トルストイから政治的、文学的、宗教的、思想・哲学的、人間的な影響を受けた人は、世界にごまんといます。チェーホフ、クロポトキン、レーニン、ナボコフ、ロマン・ローラン、トーマス・マン、ガンディー(トルストイからの影響で、「非所有」を決意、イギリス占領下のインドで非暴力運動を実践した)らに多大な影響を与えました。平成19年発表の、英米125人の作家の投票による「世界文学史上ベストテン」では1位と3位を獲得。1位が『アンナ・カレーニナ』Amazon→で、3位が『戦争と平和』でした(ちなみに2位はフローベールの『ボヴァリー夫人』Amazon→)。

日本でも明治19年から訳され、森 鴎外幸田露伴島崎藤村幸徳秋水堺 利彦与謝野晶子、木下尚江、中里介山、賀川豊彦、島村抱月(トルストイの『復活』を舞台化し松井須磨子が演じ大評判となる。映画「華の乱 Amazon→」にその場面あり)、有島武郎宮沢賢治芥川龍之介らに多大な影響を与えました。描写万能主義者だった小島政二郎は一時トルストイに打ちのめされていますね。

「アンナ・カレニナ」ほど私を打った小説はない。
傑作とか何とかいうようなものではない。完全無欠な無上のものだ。
この一作があったら、外に小説なんかいらない。
これ以上の小説を書ける人は、世界中に一人もいまい。あらゆるものが、この中にある。
質から言っても、量から言っても、小説中の小説だ。
私は打ちのめされた。小説を書く執念を叩き潰された。・・・(中略)・・・「誰も彼もつまらない小説を書いているが、『アンナ・カレニナ』を読んでいないのだろうか」
そういう疑いが起こって仕方がなかった。『アンナ・カレニナ』を読んでいたら、こんなくだらない小説なんか書いていられないはずだ。・・・(小島政二郎『眼中の人(第二部)』冒頭より)

ロマン・ローラン『トルストイの生涯(岩波文庫)』。ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』にもトルストイが投影されている 阿部軍治『白樺派とトルストイ〜武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉を中心に〜』(彩流社)
ロマン・ローラントルストイの生涯(岩波文庫)』。ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』にもトルストイが投影されている 阿部軍治『白樺派とトルストイ武者小路実篤有島武郎志賀直哉を中心に〜』(彩流社)
トルストイ 『戦争と平和(一)(新潮文庫)』。登場人物は559名に上るというが(人物関連表の自作が必要?)、一人一人の描写が批評性に富み極めて鋭く、引き込まれていく。映画版(オードリー・ヘプバーン他)→ 『終着駅 ~トルストイ最後の旅~』。富が人を堕落させると考え、莫大な富を産んでいた著作権を一切放棄。そのことから妻との間に軋轢が生じ、82歳で家出をしたトルストイ。家庭愛と人類愛とは両立しないのか? 予告編→
トルストイ 『戦争と平和(一)(新潮文庫)』。登場人物は559名に上るというが(人物関連表の自作が必要?)、一人一人の描写が批評性に富み極めて鋭く、引き込まれていく。映画版(オードリー・ヘプバーン他)→ 『終着駅 ~トルストイ最後の旅~』。富が人を堕落させると考え、莫大な富を産んでいた著作権を一切放棄。そのことから妻との間に軋轢が生じ、82歳で家出をしたトルストイ。家庭愛と人類愛とは両立しないのか? 予告編→

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
小島政二郎の『眼中の人』を読む→

■ 参考文献:
●『蘇峰自伝』(徳富猪一郎(蘇峰) 中央公論社 昭和10年発行) P.313-323 ●『巡礼紀行(中公文庫)』(徳富健次郎(蘆花) 平成元年発行 ※解説:村松 剛)P.7、P.157-213、P.255-257、P.269-271 ●「イスタンブルの中村商店をめぐる人間関係の事例研究/徳富蘇峰に宛てられた山田寅次郎の書簡を中心に」(メルトハン・デュンダル、三沢伸生) 」東洋大学学術情報リポジトリ→ ●「The Top Ten: Writers Pick Their Favorite Books」(J. Peder Zane)(popMATTERS→

※当ページの最終修正年月日
2024.10.8

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