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蘇峰の“変節”(明治30年8月26日、徳富蘇峰、内務省勅任参事官に就任する)”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和15年、東京の青山会館で開催された「大詔たいしょう奉戴ほうたい三国同盟推進大会」で壇上に立つ徳富蘇峰とくとみ・そほう(77歳)。三国同盟締結は蘇峰の主張でもあった。三国同盟を取り付けてきた松岡 洋右ようすけ とも極めて親しかった ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :『徳富蘇峰と大日本言論報国会』(山川出版社)

徳富蘇峰

明治30年8月26日(1897年。 徳富蘇峰(34歳)が、第2次松方正義まつかた・まさよし 内閣の内務省(明治初頭にでき、太平洋戦争後廃止された行政機関。警察、地方行政、国民生活全般を監督)の勅任参事官に就任しました。

それまでの蘇峰は、キリスト教の博愛主義・平和主義や自由民権運動に基づいて、 にあって、個人の人権と国民の平等を第一とする、軍事より生産を重視した「平民主義」を掲げ、政府の富国強兵策や徴兵制にも批判的でした。

何が彼を変えたのでしょう?──2年前の「三国干渉」(明治28年)が大きかったようです。

日清戦争で勝った日本が清(中国)から割譲された 遼東りょうとう半島(中国の遼寧りょうねいmap→南部にある西南方向に突き出た大きな半島)を、フランス、ドイツ、ロシアの三国が清に返還せよと圧力をかけてきたのです。「清の首都北京を脅かす」「朝鮮の独立を脅かす」というのが名目ですが、内実は各国の対清政策上、遼東半島が日本のものだと不都合だったからなのでしょう。現に日本が遼東半島を清に返還するや、上記3国は清における自国の勢力拠点(租借地)を獲得し、野心を見せます。

日本政府(伊藤博文内閣)は他の列強の後ろ盾で「三国干渉」を牽制しようとしましたが、頼みの綱の米国と英国が中立を宣言したため、やむなく受諾。列強(上記3国)の 「力」 に屈したのが、蘇峰には「涙さへも出ない程口惜くちお し」かったそうです。彼はこの時たまたま従軍記者として遼東半島の旅順にいたため、屈辱を肌で感じたようです。そして、日本も列強並みの「力」を持たなくては列強と対等な外交などできやしないと考えるようになりました。「強国(イジメっ子)」に虐められたので、なにクソと、そんな国々にも負けない「強国(イジメっ子)」に日本もなるべきと考えるようになったのでしょうか。

蘇峰にとって「三国干渉」受諾は大きかったようですが、日清戦争開戦前から、国家主義、国粋的傾向の強い集団に接近しており、国権論や国家膨張の立場をとって、日清戦争も“絶好の機会”と捉えていましたから、本性が出てきたとも言えます。

蘇峰の転身は、かつての支持者を幻滅させました。 田岡嶺雲 たおか・れいうん (26歳)は 「説を変ずるはよし、節を変ずる なか れ」 と糾弾、堺 利彦(26歳)も 「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」 と批判。蘇峰新島 襄から洗礼を受けたクリスチャンであることを突いて、“福音”という言葉を使ったのでしょう。

「三国干渉」を受諾した第2次伊藤博文内閣の次の第2次松方正義内閣に蘇峰は期待をかけ、勅任参事官になることにしたのでしょう。

「平民主義」をうたった蘇峰主宰の月刊誌「国民 友」はたちまち売り上げを落とし、翌年(明治31年)、廃刊します。蘇峰が主宰した「家庭雑誌」「欧文極東」も同年廃刊、「国民新聞」のみを残して言論活動の場としました。

明治34年に成立した第一次桂内閣の艦隊増強案も一貫して支持し、明治37年からの日露戦争における艦隊の活躍の道筋をつけましたが、日露の講和条約(ポーツマス条約)に「国民新聞」(蘇峰42歳)も賛成の立場を取ったため、それを不服とする民衆の襲撃の対象ともなっています。

明治44年(蘇峰48歳)には貴族院の勅選議員になりますが、大正2年に桂 太郎が死去したのを機に政界を離れ、文筆に専念するようになります。大正7年(蘇峰55歳)には、全100巻にもなる『近世日本国民史』を起筆。

昭和4年(蘇峰66歳)「国民新聞」から身を引いた後は、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に政治評論を書くようになります。昭和6年日本が引き起こした満州事変からの15年戦争期になると軍拡路線(侵略路線)の蘇峰の論説が盛んにもてはやされるようになります。昭和14年発行の『昭和国民読本』NDL→、昭和19年発行の『必勝国民読本』NDL→は広く読まれました。

・・・我国のごとく、萬世一系ばんせい・いっけいの皇統を戴き、三千年来、不息、不断、生々せいせい発展の国家に住し、この君とこの国とに一切をささぐべきは、ひとり当然の義務であるばかりでなく、無二むに光寵こうちょうであり、無類むるい本望ほんもうである。いやしくも導くにその道をもつてし、おしえ るに其言そのことをもってせば、日本国民の一人たりとも、これを会得し、これに感銘し、これを実践すべきは、断じで疑いをれない。・・・(徳富猪一郎〔蘇峰のこと〕『昭和国民読本』より)

・・・アッツ島における将兵でも、またガダルカナル島における将兵でも、キスカ島における将兵でも、近くはブーゲンビル島における将兵でも、またタラワ島、マキン島における将兵でも、死する時には必らず
『天皇陛下万歳ばんざい』を叫ばざる者はない。しかるに英米両国の軍隊は、その死する時に何と叫ぶか。彼らは誰のために生き、誰のために死するか。彼らはただ物質欲のために生き、物質欲のために死するものである。我が軍隊は一度家門かもんづるや、もとより生還を期していない。・・・(徳富猪一郎〔蘇峰のこと〕『必勝国民読本』より)

「自由主義の一掃」という章には、

・・・我国においては共産主義の猛獣毒蛇よりも憎むべきことは皆な知っている。しかし自由主義が更に恐るべきものであることには、ほとんど注意する者は少い。されど自由主義はお玉杓子たまじゃくしのごとく、共産主義はかえるのごときものである。・・・(徳富猪一郎〔蘇峰のこと〕『必勝国民読本』より)

とあり、蘇峰が「反共」(反共産主義)を打ち出すのは、その自由主義的側面を批判しているのであって、米国が「反共」を打ち出すときの共産主義の全体主義(反自由主義)的傾向の批判とは真逆であることに注意しなくてはなりません(現今「反共」を打ち出す人は、そのどちらの立場から批判しているのでしょう?)。

後者の『必勝国民読本』は、東条英機政権下で、政府のたっての願いで書かれたものです。東条内閣は、蘇峰の意見を取り入れて、アジア太平洋戦争へと突き進んでいったのです。開戦の 詔書しょうしょ 案にも蘇峰の意見が入れられており、昭和17年には「思想戦」の中核をなすこととなる「大日本言論報国会」が設立するとその会長に就任、日本を「反共」「反米」「アジアにおける覇権主義他のアジア諸国に対する蔑視(他国の文化の不尊重)が背景にある)」「軍部を中心にした政治」(男子普通選挙と政党政治の否定)「皇室中心主義」(「反民主主義」。不敬罪」が横行し、頭の下げ方がけしからんとかいった理由で糾弾されたり、逮捕されたりするようになる)へと導きました。

敗戦後、「戦争を勃発させるのに最も力のあった( 清沢 洌 きよさわ・きよし )」蘇峰は、東京裁判のA級戦犯(「平和に対する罪」(侵略戦争の企画・実行に当たった罪))の容疑者となりますが、老齢と坐骨神経痛を理由に起訴を免れ自宅軟禁となりました。

蘇峰が上記の『昭和国民読本』を書いた当地の「山王草堂さんのう・そうどう」は、現在、東京都大田区立●●●● の「山王草堂記念館」(東京都大田区山王一丁目41-21 Map→)になっていますが、彼の人脈の広さと膨大な蔵書や著書、庭園や愛用の品などに触れるのみで、彼の戦争責任に触れる展示は今のところほとんどないようです。どうなんでしょう?

米原 謙 『徳富蘇峰 〜日本ナショナリズムの軌跡〜 (中公新書) 』 赤澤史朗『徳富蘇峰と大日本言論報国会(日本史リブレット)』(山川出版社)。平成29年発行
米原 謙『徳富蘇峰 〜日本ナショナリズムの軌跡〜(中公新書)』 赤澤史朗『徳富蘇峰と大日本言論報国会(日本史リブレット)』(山川出版社)。平成29年発行
保阪正康『東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)』 清沢 洌(きよさわ・きよし) 『暗黒日記 〜1942-1945〜 (岩波文庫) 』。戦時中の蘇峰の論説・談話を清沢は収集・保存し、蘇峰の戦争責任を追求する準備をした
保阪正康『東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)』 清沢 洌きよさわ・きよし 『暗黒日記 〜1942-1945〜 (岩波文庫) 』。戦時中の蘇峰の論説・談話を清沢は収集・保存し、蘇峰の戦争責任を追求する準備をした

■ 参考文献:
●『蘇峰自伝』(徳富猪一郎 中央公論社 昭和10年発行)P.308-311、P.337-339 ●『徳富蘇峰と大日本言論報国会(日本史リブレット98)』(赤澤史朗 山川出版社 平成29年発行)P.4-23、P.33

※当ページの最終修正年月日
2024.8.26

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