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オスマントルコ帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって建造された「スルタン・アフメト・モスク」(トルコ最大の都市・イスタンブールにある map→)。「世界で最も美しいモスク」と評される 明治39年4月6日(1906年。
、徳富蘆花(37歳)が、兄の徳富蘇峰(43歳)と、新島 襄の墓(京都市左京区 蘆花は、3日後(4月9日)に門司から出航し、上海、香港、シンガポール、コロンボに立ち寄った後、紅海からスエズ運河に入り、その北端・ポーサイドで船「備後丸」を離れ、カイロ、エルサレム、ナザレに至りました。その後、イスタンブール、そしてバルカン半島からロシアに入りトルストイ(78歳)に面会。帰りはシベリア鉄道を利用しました。この120日間の旅を、蘆花は「巡礼の途」としており、ナザレで「イエスの聖蹟」を巡ることと、トルストイに会うことは、格別だったことでしょう(蘆花にとってトルストイは「聖者」だった)。 蘆花が旅に出たのは、日露戦争の終結(明治38年9月5日)のおそよ7ヶ月後です。日露戦争は日本が勝ったとされますが、蘆花は「剣を 蘆花は“宗教的な人”でしょう。キリスト教の影響を受け(17歳で受洗、6年後にいったんは決別しますが、生涯大きな影響を受けた)、また、旅の船がインドあたりの海に入るや釈尊(
・・・赤 “宗教的な人”・蘆花ですらイスラム教に対してはこんな感懐しか抱けなかったことに驚かされます。「不穏」とはずいぶんです。「汝の敵を愛せよ」(イエスの言葉)が聞いてあきれます。相手に対する理解(理解しょうとの意思)がないところで、「愛」などは成立しないと思うので。 この日本を含む非イスラム教圏のイスラム教に対する不理解と無関心はどの程度改善されたでしょうか? まず、確認したいのが、イスラム教が、キリスト教やユダヤ教と同根であること。イスラム教もユダヤ教同様、キリスト教の『旧約聖書』を聖典としていて、同じ神「ヤハウェ」(エホバ、アッラー、アッラーフ、アラー)を信仰します。『旧約聖書』で有名なアダム、ノア、アブラハム、モーセが信じた神は、イスラム教の神でもあるのです。 この3つの宗教は、救世主(メシア。キリスト)と預言者(神から遣わされた人)をどう考えるかで異なってきます。イエス(ジャスト紀元頃-30年頃)を救世主とするのがキリスト教で、ユダヤ教はイエスを預言者(救世主)と認めないので、イエス以後のことが書かれた『新約聖書』を聖典としません。イスラム教では、イエスも預言者と認めますが、さらにムハンマド(マホメット。570年頃-632年)も預言者とします。キリスト教ではマホメットを預言者と認めません。 イスラム教はイエスもマホメットも認めるので、預言者の許容度が一番高いですが、預言者がもたらした「神の言葉」のみを聖典(イスラム教では啓典という)とし、それ以外の「人間の言葉」とされる部分(例えば聖書記者が書き、編集したとされる部分)は啓典としないという厳密な態度をとっています。ですから、キリスト教とユダヤ教が聖典とする『旧約聖書』(ユダヤ教では『ヘブライ語聖書』(タナハ))でも、モーセ(イスラム教ではムーサー)に神から下された『モーセ五書』(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)、ダビデ(イスラム教ではダーウード)に神から下された『詩篇』のみを啓典とします。そして、『新約聖書』ではイエス(イスラム教ではイーサー)に神から下された『福音書』(「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」)、さらにはムハンマドに神から下された『クルアーン』(コーラン)を加えて、この4書を啓典としています。『コーラン』が最重要視されるのは、『旧約聖書』『新約聖書』にある部分は、キリスト教徒(聖書記者などの人間。預言者でない人)によって改変されている可能性があるからのようです。 このようにイスラム教は、「神の言葉」を最重要視し、それを忠実に守ろうとしてきました。モーセ(ムーサー)に神から下された「十戒」の第2戒「偶像崇拝の禁止」にも忠実で、神や預言者や聖者の形(図像)を作って、それを礼拝することもありません。あくまでも「神」のみが偉大であり、ラビや司祭といった聖職者が、神の名を借りて力を持つことにも批判的なようです。 世界には、主にアフリカ大陸の北西端・モロッコから東南アジアのインドネシアまでの範囲に約16億人ものムスリム(イスラム教信者。女性形はムスリマ)がいるとされますが(日本にも外国人ムスリムが10万人弱、日本人ムスリムが1万人弱ほどいるようだ)、ムスリムたちはアラビア語で啓典を読み、アラビア語で祈り、また、モスクは礼拝の場として共有されていて(仏教での檀家のような直轄の信徒がいない)、ムスリムは他のモスク(それが他国であっても)でも不自由なく礼拝できるシステムになっているようです。 こういった信仰共同体(ウンマ)を保つ優れたシステムがあるのに、現在のイスラム諸国は、なぜか連帯していません。その連帯を妨げてきた歴史(誰が連帯を妨げてきたか?)を世界の多くの人が知ること(「国際理解教育」の要点の一つ)が、様々な中東問題を解決する第一歩ではないでしょうか。 世界のムスリムにとって大きな分岐点になったのが、イスラム共同体の軸だった「カリフ」の廃止です(大正13年)。第一次世界大戦で敗戦国となったオスマントルコ帝国を、戦勝国の英、仏、伊、米、ギリシャ軍が蚕食した時、それに妥協的なイスタンブールのスルタン政権に対して、トルコ民族の主権、領土保全、国民議会の招集を訴えて軍司令官のムスタファ・ケマルが祖国解放運動の口火を切りました。彼は不平等条約を撤廃し、連合軍の撤退をも勝ち取って「トルコ建国の父」となりますが、その過程でカリフ制が廃止されます。それによって、ムスリムたちの信仰的な絆が大きく損なわれてしまったようです。現在に連なる中東問題を考える時、まずは第一次世界大戦ぐらいまでは遡ることが必要なようです。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |