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大正5年11月8日(1916年。
葉山の「日蔭茶屋」(現・「葉山日影茶屋」。神奈川県三浦郡葉山町 大杉は独特な恋愛観を持っていました。それぞれが経済的に自立し、同棲せずに別居、互いの自由(性的な自由も)を完全に尊重するというもので、提案するだけでなく実践もしていたのです。大杉は、堀 ところがこの三角関係に、さらに伊藤野枝(21歳)が飛び込んできて四角関係となります。大杉が伊藤を他の2人より好くようになって、上手くいくはずの自由恋愛はいとも簡単に破綻しました。 神近には比較的安定した収入があり、大杉を経済的に援助していましたが、その金が伊藤とのことに使われていると知っては気が収まりません。 大杉と伊藤の仲が深まるにつれ、神近の絶望が深まりました。自死を考え短刀を手元に置くようになります。 一人で仕事をしに葉山へ行くという大杉を神近が追っていくと、そこに伊藤がいます。気まずい空気になって伊藤は帰ってしまい、大杉と2人っきりになった神近。その心境を、瀬戸内晴美(寂聴)が次のように書いています。 ・・・ 「もう許さないぞ。 今度こそ最後だ。 きみの正体がわかったよ。 ぼくに貸した金があるからそれをかさにきて暴言を吐くんだ。 金は返す。 さあ、持って帰れ! これでもうきみとは他人だ。 明日さっさと帰ってくれ」 色恋は、大杉が考えたような“理論”で割り切れるもんではありませんでした。凶行後(大杉は命には別状なかったが首に重傷を負った)、神近は近くの海で死のうとしますが死に切れず、近くの交番に自首、翌11月9日、横浜の拘置所に移されます。裁判では殺人未遂で懲役4年が宣告されますが、控訴の末、2年となって服役しました。
大杉が事件の被害者ですが、世間は神近に同情的でした。大杉と伊藤の仲間の多くもこの事件をきっかけに2人から去っていきました。事件の数日前、大杉のために布団を縫っている神近の姿を見ていた秋田 美はただ乱調にある。 複数の異性と同時に付き合うことで、倉田百三も大バッシングされました。大正9年10月27日、倉田(29歳)は当地(東京都大田区大森)に居を構えますが、最初は一人でした。しばらくして、元妻の高山晴子がやってきて、病弱な倉田の面倒をみます。結核にかかり一高も退学せざるを得なかった失意の倉田を支えたのも晴子でした。 4年前の大正6年、倉田(26歳)は戯曲『出家とその弟子』が大ベストセラーになって、一挙に著名人になりました。慕う青年男女が倉田の周りに集い、周囲は華やかになりました(そういった“倉田サロン”には、出奔前の柳原白蓮や宮崎龍介の姿もあった。2人を引き合わせたのが倉田と晴子だった)。その華やかさに惹かれてか、かつて倉田を振った伊吹山直子や、 倉田は、この3人の女性と特別な関係になることを避け、皆が仲良くすることを望んだようですが、マスコミから“多妻主義” と批判されます。倉田の理想主義的なイメージと彼の女性関係はかけ離れているように見られたのです。多くの読者が去っていったようです。後に俳優として活躍する薄田研二も倉田のところに毎日のように出入りした人ですが、倉田の女性スキャンダルが広がるや福岡から上京、身請けするがごとくに晴子を かつて日本では、複数の妻を持つこと、 明治31年より「 連載開始の翌年(明治32年)、「萬朝報」に堺 利彦が入社します。堺は入社2年後の明治34年(堺31歳)、『家庭の新風味』(全6冊。翌年9月完結)を執筆、男女同権の立場から、妾を持つことを批判、刑法に「有夫姦」があるのに「有妻姦」がないのも指摘。妾を持つ理由「血統を絶やさぬため」とか「男の本能」とかいった意見に対しては、では、女性が血統を絶やさぬため、または本能によって他の男性と交わることも許されるのかと迫りました。堺がフェミニズムに果たした役割は計り知れません。堺は「愛妻居士」とからかわれるほどの愛妻家でした。 岡本かの子(小説家。歌人。仏教研究家。岡本一平の妻。岡本太郎の母)は、夫のいる家に「男」をおいた(?)といいますが、本当でしょうか?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |