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四角関係の迷路(大正5年11月8日、大杉栄、神近市子に刺される。「日陰茶屋事件」)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大杉 栄 大杉 栄 北川千代

大正5年11月8日(1916年。 葉山の「日蔭茶屋」(現・「葉山日影茶屋」。神奈川県三浦郡葉山町堀内ほりうち16 Map→ Site→)で、アナキストとしてならした大杉 栄(31歳)が、才媛 さいえんとして知られた「東京日日新聞」の記者神近市子(28歳)に刺されました。「日陰茶屋事件」と呼ばれるものです。

大杉は独特な恋愛観を持っていました。それぞれが経済的に自立し、同棲せずに別居、互いの自由(性的な自由も)を完全に尊重するというもので、提案するだけでなく実践もしていたのです。大杉は、堀 保子やすこ(33歳。社会運動家。堺 利彦の死別した先妻の妹)を内縁の妻とし、神近とも関係を持ちました。

ところがこの三角関係に、さらに伊藤野枝(21歳)が飛び込んできて四角関係となります。大杉伊藤を他の2人より好くようになって、上手くいくはずの自由恋愛はいとも簡単に破綻しました。

神近には比較的安定した収入があり、大杉を経済的に援助していましたが、その金が伊藤とのことに使われていると知っては気が収まりません。 大杉伊藤の仲が深まるにつれ、神近の絶望が深まりました。自死を考え短刀を手元に置くようになります。

一人で仕事をしに葉山へ行くという大杉神近が追っていくと、そこに伊藤がいます。気まずい空気になって伊藤は帰ってしまい、大杉と2人っきりになった神近。その心境を、瀬戸内晴美(寂聴)が次のように書いています。

・・・ 「もう許さないぞ。 今度こそ最後だ。 きみの正体がわかったよ。 ぼくに貸した金があるからそれをかさにきて暴言を吐くんだ。 金は返す。 さあ、持って帰れ! これでもうきみとは他人だ。 明日さっさと帰ってくれ」
 市子は大杉がかばんの中からつかみ出した札束を見て全身の血がひいていった。このわずかな紙幣で、大杉とのすべてが絶ちきられるのだと思うと、もう考える力も尽きはてた気がした。肉親も、友人も、社会も、職も、すべてを犠牲にして自分をけた恋のあたいが、この数枚の紙幣の価値しかなかったのか。市子は、自分が石になったような感じしかのこらなかった。もう野枝も、保子も頭の中にはなかった。空洞くうどうになった自分の中を冷たい風が吹き荒れていく。・・・( 瀬戸内晴美『美は乱調にあり』より)

色恋は、大杉が考えたような“理論”で割り切れるもんではありませんでした。凶行後(大杉は命には別状なかったが首に重傷を負った)、神近は近くの海で死のうとしますが死に切れず、近くの交番に自首、翌11月9日、横浜の拘置所に移されます。裁判では殺人未遂で懲役4年が宣告されますが、控訴の末、2年となって服役しました。

旅館だった頃の名残りを残す現在の日蔭茶屋。大杉らが逗留したのは2階の向かって右端の部屋というが、現在の建物は昭和初期に建設(再建?)されたもので、事件当時のものではないようだ 旅館だった頃の名残りを残す現在の日蔭茶屋。大杉らが逗留したのは2階の向かって右端の部屋というが、現在の建物は昭和初期に建設(再建?)されたもので、事件当時のものではないようだ

大杉が事件の被害者ですが、世間は神近に同情的でした。大杉伊藤の仲間の多くもこの事件をきっかけに2人から去っていきました。事件の数日前、大杉のために布団を縫っている神近の姿を見ていた秋田雨雀 うじゃく(33歳)は神近に痛く同情し、知人からお金を借りて神近を支援、「読売新聞」に「彼女の心意気」を書いて神近を弁護しました。神近と親しかった宮島資夫 すけお(30歳)などは、怒りが収まらず、大杉が入院した病院の前で伊藤を見つけるや罵倒しぬかるみに突き倒し蹴飛ばしています。大杉伊藤の恋愛は「悪魔の恋」と報道され、安部磯雄、岩野泡鳴、武者小路実篤平塚らいてう与謝野晶子らも2人から去っていきました。意外にも“道徳的”な人たちをあざ笑うがごとく、大杉伊藤は翌大正6年に生まれた子に魔子と命名。

美はただ乱調にある。
諧調は偽りである。(大杉 栄)

倉田百三

複数の異性と同時に付き合うことで、倉田百三も大バッシングされました。大正9年10月27日、倉田(29歳)は当地(東京都大田区大森)に居を構えますが、最初は一人でした。しばらくして、元妻の高山晴子がやってきて、病弱な倉田の面倒をみます。結核にかかり一高も退学せざるを得なかった失意の倉田を支えたのも晴子でした。

4年前の大正6年、倉田(26歳)は戯曲『出家とその弟子』が大ベストセラーになって、一挙に著名人になりました。慕う青年男女が倉田の周りに集い、周囲は華やかになりました(そういった“倉田サロン”には、出奔前の柳原白蓮や宮崎龍介の姿もあった。2人を引き合わせたのが倉田と晴子だった)。その華やかさに惹かれてか、かつて倉田を振った伊吹山直子や、婚家こんかを逃れて倉田を頼ってきた逸見久子という女性が現われます。倉田は大森の家にこの2人も弟子として出入りさせました。

倉田は、この3人の女性と特別な関係になることを避け、皆が仲良くすることを望んだようですが、マスコミから“多妻主義” と批判されます。倉田の理想主義的なイメージと彼の女性関係はかけ離れているように見られたのです。多くの読者が去っていったようです。後に俳優として活躍する薄田研二倉田のところに毎日のように出入りした人ですが、倉田の女性スキャンダルが広がるや福岡から上京、身請けするがごとくに晴子をめとっています(倉田の了承の上で)。

かつて日本では、複数の妻を持つこと、めかけ〔妻以外の経済的援助を伴う愛人〕を持つことが当然とされ、むしろ“男の甲斐性かいしょう〔頼りがいがあること〕”などといって賞賛されました。「妻妾さいしょう同居」も公然と行なわれ、そりゃ女性としては嫉妬しっともしますね(「嫉妬」の二文字は女篇)。かの「源氏物語」もみかどにあまたはべる妻たちの嫉妬の物語から始まります

明治31年より「萬朝報よろずちょうほう」 が「弊風へいふう一斑いっぱん 畜妾ちくしょうの実例」という記事を長期にわたって連載、妾を持つことの男性中心性を徹底的に批判しました。妾を囲っている実例を500以上も紹介、伊藤博文、犬養 毅、森 鴎外、北里柴三郎、黒田清輝らも槍玉に挙げました。国民の意識が“多妻主義”を否定する傾向を示すのはこの頃からでしょうか。

連載開始の翌年(明治32年)、「萬朝報」に堺 利彦が入社します。は入社2年後の明治34年(31歳)、『家庭の新風味』(全6冊。翌年9月完結)を執筆、男女同権の立場から、妾を持つことを批判、刑法に「有夫姦」があるのに「有妻姦」がないのも指摘。妾を持つ理由「血統を絶やさぬため」とか「男の本能」とかいった意見に対しては、では、女性が血統を絶やさぬため、または本能によって他の男性と交わることも許されるのかと迫りました。堺がフェミニズムに果たした役割は計り知れません。堺は「愛妻居士」とからかわれるほどの愛妻家でした。

岡本かの子(小説家。歌人。仏教研究家。岡本一平の妻。岡本太郎の母)は、夫のいる家に「男」をおいた(?)といいますが、本当でしょうか?

『恋愛論アンソロジー 〜ソクラテスから井上章一まで〜 (中公文庫)』。編集:小谷野 敦。神近市子の「処女無用論」を収録 鹿島 茂『カサノヴァ 〜人類史上最高にモテた男の物語〜(上)』(キノブックス )。貴婦人から女奴隷までわたり歩いた男の話
『恋愛論アンソロジー 〜ソクラテスから井上章一まで〜 (中公文庫)』。編集:小谷野 敦。神近市子の「処女無用論」を収録 鹿島 茂『カサノヴァ 〜人類史上最高にモテた男の物語〜(上)』(キノブックス )。貴婦人から女奴隷までわたり歩いた男の話
山田昌弘『結婚不要社会 (朝日新書)』 堀江珠喜 『妾』(北宋社)。文学作品などを通して妾としての生き方を考察
山田昌弘『結婚不要社会 (朝日新書)』 堀江珠喜『妾』(北宋社)。文学作品などを通して妾としての生き方を考察

■ 馬込文学マラソン:
瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』を読む→
倉田百三の『出家とその弟子』を読む→

■ 参考文献:
●『神近市子自伝 〜わが愛わが闘い〜』(新樹社 昭和47年初版発行 同年発行2刷参照)P.134-168 ●『大杉 栄伝 〜永遠のアナキズム〜(角川ソフィア文庫)』(栗原 康 令和3年発行)P.151-157 ●『倉田百三(増補版)』(鈴木範久 大明堂 昭和55年発行)P.66、P.118-119、P.124-129、P.182、P.184-185、P.196-198、P.200 ●『暗転 ~わが演劇人生~』(薄田研二 東峰書院 昭和35年発行)P.15-24、P.34-39 ●『パンとペン 〜社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い〜』(黒岩比佐子 講談社 平成22年発行)P.89-93

※当ページの最終修正年月日
2024.11.8

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