唯円
という若い僧侶が “かえで” という遊女を愛した。2人は深く理解し合い、涙しながら将来を語り合う。
しかし、当時は普通、僧侶が恋人を作ることは認められなかった。特定の関係(例えば恋人をもったり家族を持ったりすること)が「全ての人に平等に仕えるべき」との宗教者の姿勢を揺がすと考えられたからだろう。ましてや、彼が愛したのは、不特定多数の男性と性的な関係を結ぶ遊女である。
恋いこがれる彼は寺の仲間に嘘を言って彼女に会おうとする。会わずにはいられないのだ。
そのことを知った寺の仲間は唯円を責める。
僧二 あなたは仏様のかわりにあの女を拝んだらいいでしょう。
唯円 (立ち上がる)私はごめんをこうむります。(行こうとする)
僧三 (さけぶ)勝手になされませ。
僧一 (制する)そんなに荒くなってはいけません。 唯円殿まあお待ちなされませ。
唯円 (すわる)私はなさけなくなります。(涙ぐむ)
僧一 あなたは自分のしている事を悪いとはお思いなさらぬのですか。
唯円 皆様のおっしゃるように悪いとは思っていません。
僧一 ではなぜうそを言って外出あそばすのですか。
唯円 ・・・・・・
一人を愛すれば愛するほどに、仲間を裏切り、周りに壁を作ってしまう唯円。
『出家とその弟子』の「出家
」は、
親鸞
のこと。登場する唯円を含む僧侶たちの師匠だ。親鸞が唯円に語る言葉が心にしみる。
唯円は後に名著『
歎異抄
』を著すこととなる(異説あり)。『歎異抄』とは、『出家とその弟子』にも出てくるが、親鸞の実子の
善鸞
が親鸞と異なることを説くようになり(最初、浄土真宗の中におこった異論の収拾に善鸞が当たったが説得に失敗、善鸞自らも異論を説くようになり、親鸞は善鸞と絶縁する)、その「異」を「歎」き、法然から受け継いだ親鸞の真宗の教え(
専修念仏
)に帰るよう勧めた書。
『出家とその弟子』について
倉田百三の戯曲。大正5年半ば(倉田25歳)から書き始めた倉田初の本格的な作品。同年(大正5年)11月、
千家元麿
に送った原稿が、千家をはじめ武者小路実篤、
長与善郎
らを驚かせた。創刊されたばかりの雑誌「生命の川」に掲載され、翌大正6年、知人の計らいで岩波書店から単行本になる。無名の倉田は、初版の費用を自分で持ったという。全国に親鸞ブームが起こるほどのベストセラーになった。岩波文庫の第一回配本分30冊にも入り、今も読み継がれている。英訳・仏訳(序文:ロマン・ローラン)も出ている。
■『出家とその弟子』評
●「生命に充ちた作を涙と感激とで読んだ」(和辻哲郎)●「芸術の “ユーラシア” が生み出したもっとも美しい典型」(ロマン・ローラン)
●「あらゆる時代を超えて共通する青春の問題が含まれている」(亀井勝一郎)
●「親鸞をあまりに人間化して描いている。キリスト教的にゆがめられた親鸞像だ」(真宗側からの批判)
倉田百三について
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倉田百三 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :『馬込文士村 ~あの頃、馬込は笑いに充ちていた~』(東京都大田区立郷土博物館) |
原始的欲望の積極的肯定と、その挫折
明治24年2月23日(1891年)、広島県
庄原
(map→)で生まれる。庄原は瀬戸内海と日本海の中間にあり、市場として栄えた町。開明的、解放的で、同和教育、英語教育、女子教育が盛んだった。英学校のほとんどがミッション系だった時代、町民の意志で「庄原英学校」が設立(明治27年)。当時から小学校で英語の授業があり、倉田も小学校で英語を学んだ。
東京に出て、一高に入学。同級の矢内原忠雄や芥川龍之介など無試験組を振りきって主席となる。性愛を含む原始的な衝動を積極的に肯定し、キリスト教信者の矢内原と論争。西田幾多郎(42歳)にも性愛の問題を手紙で突きつけた。
2度の大失恋と、入学2年目の結核の罹患からの断腸の思いでの退学。また、2人の姉を立て続けに病で失い、実家も凋落した。肉体的な衰えを感じ、健康な体が前提の思想の普遍性に疑問をいだくようになった。大正4年(24歳)から翌年にかけて半年強、一燈園に入って托鉢の生活を送る。さりとて美や官能への志向を捨て去ることもできず、「性」と「聖」の間でもがき苦しみ、それを乗り越えようとする中から倉田文学が生まれる。
『出家とその弟子』のヒット
大正5年(25歳)、『出家とその弟子』がヒットし一躍名声を得る。白樺派との交流が始まり、大正7年に発足した武者小路実篤の「新しき村」にも積極的に関わった。倉田の家は「新しき村」の福岡支部となり、柳原白蓮や倉田を慕う青年たち(薄田研二や画家の児島善三郎など)でにぎわう。大正10年(30歳)発表の『愛と認識との出発』も学生を中心によく読まれた。
原始的欲望を再び肯定、日本主義へ傾く
経済的に安定し、健康も回復するにつれ、“弱者”の立場からの思想は影をひそめ、再び原始的欲望を積極的に肯定するようになる。超人的な資質を目指す努力主義的傾向も現れた。しかし後半生も、概して心身の病との戦いだった。参禅など修養に努める。昭和8年(42歳)、日本主義の団体の結成に参加し、その機関誌「新日本」の編集長となる。
昭和18年2月12日、当地(東京都大田区南馬込三丁目37-18 map→)の自宅で死去。満51歳だった。墓所は東京多磨霊園と郷里の広島庄原の倉田家墓所(
)。
倉田百三と馬込文学圏
大正9年10月27日(29歳)、高山晴子と子の地三
(後に舞台俳優として活躍 Wik→)を明石に残して単身上京。当地(東京都大田区山王・中央方面)に住む。この頃は健康をやや回復し、名声も上がり、収入も安定。女性関係が複雑になり、マスコミから“多妻主義”と批判される。
病院への入退院をへて、当地の出石(いずるいし。東京都品川区)に転居。大正13年(33歳)、直子と結婚し、当地(東京都大田区南馬込三丁目)、神奈川県藤沢、東京牛込などを転々とする。南馬込の家があったあたりは、現在、「安田眼科」(東京都大田区南馬込三丁目37-18 map→)になっており(安田眼科の医師の祖父が倉田の主治医だった)、倉田が家を建てた時のエンタシスの柱と栗の木で作られた書斎が残っているとのこと(平成3年3月12日時点)。
昭和14年(48歳)、朝鮮、中国、満州、蒙古と歴訪後、体調がすぐれず病臥。当地の平井分院や、東大付属病院で治療し、昭和17年(51歳)からは自宅で療養するが衰弱、翌昭和18年、同地で死去する。
■ 作家別馬込文学圏地図 「倉田百三」→
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『倉田百三 〜光り合ういのち〜 (人間の記録) 』(日本図書センター) |
倉田百三『愛と認識との出発 (岩波文庫)』。20代の論考。旧制高校生の“必読書”だった |
参考文献
●『倉田百三<増補版>』(鈴木範久 大明堂 昭和55年発行)P.1-4、P.31、P.174、P.195-197 ●『暗転 わが演劇自伝』(薄田研二 東峰書院 昭和35年発行)P.11-40 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.31-32 ●「エンタシス 〜主なき今もどっしりと〜(「馬込文士村 22」)」(谷口英久)※「産経新聞」平成3年3月12日号に掲載
参考サイト
●青空文庫/倉田百三/光り合ういのち→ ●ウィキペディア/・唯円(令和元年5月20日更新版)→ ・歎異抄(令和3年1月15日更新版)→
※当ページの最終修正年月日
2021.11.20
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