{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

多妻主義?(大正9年10月27日、倉田百三、大森に居を構える)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倉田百三

大正9年10月27日(1920年。 倉田百三(29歳)が単身上京、当地(東京都大田区大森)に居を構えました。

3ヶ月前の7月、倉田と高山晴子は籍を同じにしましたが、わずか2ヶ月あまりで離縁、倉田は単身やってきました。とはいっても、2ヶ月後の12月には、晴子も倉田との間の子の地三ちぞう (3歳。後に東京芸術座の俳優となる)をつれて当地にやってきて近所に住み、病弱な倉田の面倒を見続けます。

倉田と晴子との付き合いは、5年前の大正4年、倉田が結核で広島病院に入院しているとき、彼が通い始めていた広島県庄原map→のアライアンス教会の宣教師メーベル・フランシスが、クリスチャンであり伝染病院で婦長をしていた晴子を見舞いに差し向けてからのようです。2人は理解し合い、倉田が一燈園で信仰生活に入ったとき、晴子も従っています。2人は男女の仲というより、信仰の友といった感じだったのではないでしょうか。倉田は一高(現在の東大)の中でも飛び抜けた秀才で、有名な哲学者・西田幾多郎に議論を吹っかけるような学生でしたが、大正2年(22歳)、好きだった女性から絶縁状をたたきつけられ、さらには当時不治の病いと恐れられた結核にかかり、一高を退学せざるを得なくなります。その失意の倉田を晴子が支えました。

ところが4年後の大正6年、倉田(26歳)に転機が訪れます。戯曲 『出家とその弟子』 が大ベストセラーとなって、一挙に著名人になります。倉田を慕う青年男女が彼の周りに集い、彼の周囲は華やかになりました。倉田サロンには、出奔前の柳原白蓮や宮崎龍介の姿もありました。二人を引き合わせたのが倉田夫妻(倉田と晴子)。サロンには、児島善三郎や薄田研二の姿もありました。

その華やかさに惹かれてかかつて倉田を振った伊吹山直子や、 婚家こんか を逃れて倉田を頼ってきた逸見久子といった女性も現われます。この2人を、倉田は、当地(東京都大田区大森)の家に、弟子として出入りさせました。

倉田は、晴子を含めたこの3人の女性と特別な関係になることを避け、皆が仲良くあることを望みましたが、「新潮」や 「国民新聞」は、 それを“多妻主義” と批判。倉田は『出家とその弟子』や『布施太子の入山』といった作品で宗教的な見地から恋愛問題に取り組んでいましたし、また、武者小路実篤が起こした理想主義的な芸術家集団「新しき村」の熱烈な支援者だったこともあり、倉田の女性関係に多くの読者がギャップを感じ、幻滅したようです。

薄田研二

薄田研二倉田の女性関係に幻滅した一人で、晴子が倉田に献身的に尽くしていたことや、そこに伊吹山直子が現れ険悪な空気になったこともよく知っていました。晴子と子の地三を慰めようと心に決め、薄田も当地(東京都大田区大森)にやってきます。そして、同情が恋となり、薄田と晴子は子をもうけ、倉田の許可も得て結婚することとなります。晴子とのことが整理されたからか、4年後の大正13年、倉田(33歳)は、伊吹山直子と正式に結婚・・・。

------------------------------------------------------

かつて日本では、複数の妻を持つこと、妾を持つことが当然とされ、むしろ“男の甲斐性”などといって賞賛されたふしすらあります。今でも、冗談で、あるいは本気で?、そんなことをいう人がいるかもしれません。妾を持つだけでなく「妻妾同居」も公然と行なわれていて、「嫉妬」は女篇になっていますが、そりゃ、心穏やかでいられるわけないですよね。かの「源氏物語」もみかどにあまた侍る妻たちの嫉妬の物語から始まりますでも、伴侶が奪われたとき心乱すのはなにも女性に限りませんね。「男疾・男石」でもいいわけです。

黒岩涙香

明治25年、黒岩涙香くろいわ・るいこう(29歳)が日刊新聞「萬朝報よろずちょうほう 」を創刊。創刊6年後の明治31年(涙香35〜36歳)から 「弊風一斑 畜妾の実例」という記事を長期にわたって連載、妾を持つことの男性中心主義を徹底的に批判しました。倉田が当地入りする22年前です。妾を囲っている実例を500以上も紹介、伊藤博文、犬養 毅、森 鴎外、北里柴三郎、黒田清輝らも槍玉に挙がります。国民の意識が“多妻主義”否定の傾向を示すのはその頃からでしょうか。

堺利彦

堺 利彦が朝報社(「 萬朝報 よろずちょうほう 」の発行所)に入社するのは、「弊風一斑 畜妾の実例」の連載が始まった明治31年の翌明治32年(28歳)。幸徳秋水は前年の明治31年より、内村鑑三涙香に懇願されてさらに1年前の明治30年より朝報社にいました。スゴい3人が揃ったものです。幸徳内村も海外思想を学んでいたので、男女同権の意識が高かったと思われ(ただし、内村は、西洋の男女同権の立場から日本の風俗習慣を徹底批判したキリスト教の牧師・田村直臣なおおみ の意見には否定的だった)、「弊風一斑 畜妾の実例」の連載に一定の役割を果たしたのではないでしょうか。は「愛妻居士」とからかわれるほどの愛妻家だったので、妾を持つことを許容している社会を糾弾した朝報社の姿勢に共感して入社したのかもしれません。

は入社2年後の明治34年(31歳)には『家庭の新風味(一)〜家庭の組織〜』(全6冊。翌年9月完結)を執筆し、男女同権の立場から、妾を持つことを批判、刑法に「有夫姦」があるのに「有妻姦」がないのも指摘。妾を持つ理由「血統を絶やさぬため」とか「男の本能」とかいった意見に対しては、では、女性が血統を絶やさぬために他の男性と交わることも許されかと切り返しました。堺がフェミニズムに果たした役割は計り知れません。

------------------------------------------------------

岡本かの子

岡本かの子(小説家。歌人。仏教研究家。岡本一平の妻。岡本太郎の母親)は、果敢にも(?)「一婦多夫」を実践したようですね!?

薄田研二 『暗転 ~わが演劇自伝~』(東峰書院) 黒岩涙香 『弊風一斑 蓄妾の実例 (現代教養文庫) 』(社会思想社)
薄田研二『暗転 ~わが演劇自伝~』(東峰書院) 黒岩涙香 『弊風一斑 蓄妾の実例 (現代教養文庫) 』(社会思想社)
瀬戸内晴美 『かの子撩乱 (講談社文庫) 』 堀江珠喜 『妾』(北宋社)。文学作品などを通して妾としての生き方を考察
瀬戸内晴美 『かの子撩乱 (講談社文庫) 』 堀江珠喜 『妾』(北宋社)。文学作品などを通して妾としての生き方を考察

■ 馬込文学マラソン:
倉田百三の『出家とその弟子』を読む→

■ 参考文献:
・ 『倉田百三(増補版)』
 (鈴木範久 大明堂 昭和55年発行)
  P.66、P.118-119、P.124-129、P.182、P.184-185、P.196-198、P.200

・ 『暗転 ~わが演劇人生~』
 (薄田研二 東峰書院 昭和35年発行)P.15-24、P.34-38

・ 『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』
 (黒岩比佐子 講談社 平成22年発行)P.89-93

■ 参考サイト:
ウィキペディア/メーベル・フランシス(平成29年1月30日更新版)→
ウィキペディア/倉田地三(平成30年5月17日更新版)→
ウィキペディア/黒岩涙香(平成30年6月22日更新版)→
ウィキペディア/萬朝報(平成30年10月23日更新版)→
ウィキペディア/幸徳秋水(平成30年10月3日更新版)→
ウィキペディア/内村鑑三(平成30年9月8日更新版)→
ウィキペディア/日本の花嫁(平成30年9月4日更新版)→
ウィキペディア/一妻多夫制(平成30年6月7日更新版)→

文学作品を楽しむ/岡本かの子は一妻多夫を実践した!?

※当ページの最終修正年月日
2018.10.27

この頁の頭に戻る