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大正11年7月15日(1922年。
堺 利彦(51歳)、山川 均(41歳)、近藤栄蔵(39歳)らが東京渋谷に集まり、「(第一次)日本共産党」を結成。米騒動に革命の気運を感じた近藤が米国から急きょ帰国して名だたる社会主義者(世界から不平等を取り除くことを目指した人たち)を集めます。堺が委員になり、荒畑寒村(34歳)、徳田球一(27歳)、 野坂参三(30歳)、佐野 学(30歳)、鍋山貞親(20歳)、浅沼
前年の大正10年まで、近藤は、アナキズムと共産主義(ボルシェビキ派。多数派の意。ロシア社会民主労働党から分派したレーニン率いる左派。暴力革命の是認と、徹底した中央集権体制を特徴とする)の合同を唱え(「アナ・ボル連携」)、雑誌「労働運動(第二次)」をアナキスト・大杉 栄らと出すなどしていましたが、ロシアでボルシェビキ派がアナキストを弾圧するようになって、「アナ・ボル論争」となります。そんなことから、大杉らは「(第一次)日本共産党」には参加していません。 「(第一次)日本共産党」は、ロシアのボルシェビキ派の国際組織コミンテルンに加入しその日本支部として指導を仰ぎ、資金面も依存します。しかし、コミンテルンから送られてきた「日本共産党綱領草案(22年テーゼ)」(大正11年。1922年)によって、日本の党員にはやくもジレンマが起きました。そこに 「天皇制の廃止」と明記されていたからです。当時、それを主張すれば不敬罪で重い罪になったでしょうし、また、党員の中にも天皇に対する敬愛の念があったのです。コミンテルンは、天皇をふんぞり返っている絶対君主くらいにしか考えなかったのでしょう。 「22年テーゼ」は採択されないまま年を越し、翌大正12年6月、党内に潜入したスパイによって党の内部文書が当局に渡り、党員のほぼ全員が検挙されてしまいます(「第一次共産党事件」)。 そして、関東大震災の混乱の中で、大杉 栄が虐殺され、亀戸事件(組合活動家9人の虐殺)が起こり、逮捕された党員たちは恐怖感からか自供を始めます。大正13年3月頃、いよいよ行き詰まって、当地(東京都大田区森ヶ崎)の鉱泉旅館 「
一方、大正デモクラシーが盛り上がり、大正14年、「普通選挙法」が可決(同時に「治安維持法」も成立するが)。それも追い風になったでしょうし、また、コミンテルンからの要請もあって、大正15年12月4日、「(第二次)日本共産党」が誕生します。新たに参加した福本和夫(32歳)の理論(福本イズム。純正マルクス主義者が労働者を動かしていく)が主流となって、山川 均の理論(山川イズム。合法的無産政党を運動の中心にすえる)を「折衷主義」「組合主義」と批判。同年、山川・荒畑らは雑誌「労農」を創刊して「労農党」として分派します。日本の共産党系と社会党系(現在の社民党系・立憲民主党系)とがここで別れたとみていいでしょう。 しかし、穏健で改良主義的な「労農党」はもちろんのこと、福本イズムも、「27年テーゼ」(昭和2年。1927年)で否定され、日本の独自路線が消えてしまいます。 その後「(第二次)共産党」(非合法)と「労農党」(合法)とは補完し合って、昭和3年2月の「(第一回)普通選挙」では、「労農党」からでた山本宣治(38歳。後に右翼の凶刃に倒れる)を「(第二次)日本共産党」が水面下で推薦し、当選に導きました。 脅威に感じた当局は、1ヶ月後の3月15日、党員を中心に約1,600名を検挙(「三・一五事件」)。「労農党」は結社禁止となり、翌昭和4年にも地下党員を中心に4,942名が検挙され(「四・一六事件」)、佐野 学(37歳)、鍋山貞親(27歳)、市川正一(37歳。当地(東京都大田区馬込)に潜伏中、4月28日、20名以上の警察官に包囲されて捕まった)らも検挙されて党中央部が壊滅します。 ------------------------------------------------------ 昭和4年7月、東大新人会出身の田中清玄(23歳)を中心に再建されますが、当局の暴力に対抗すべく、武装闘争路線を展開(「(武装)共産党」)。昭和6年1月からの風間丈吉(29歳)を中心とした「(非常時)共産党」も、「32年テーゼ」の「天皇制廃止」を組合団体「全協」(合法)などに押しつけ、それらに対する当局の弾圧を招来させてしまい、上手くやったとは言えません。 また、特高のスパイが党内に恒常的に潜入するようになり、昭和7年には、当地(東京都大田区大森北)で「大森銀行ギャング事件」が起きました。そして、再びの大量検挙(「熱海事件」)。昭和8年には、小林多喜二(29歳)の拷問死があり、佐野 学(41歳)と鍋山貞親(31歳)が獄内で転向声明を発表。特高のスパイが党の指導部にまでも入り込み、党内では互いに疑心暗鬼となってリンチ事件も起きます。昭和10年、戦前の最後の中央委員といわれる袴田里見(30歳)が検挙されて、戦前の「日本共産党」中央部は全滅しました。 ------------------------------------------------------
戦後、「日本共産党」は、獄中でも非転向を貫いた徳田球一(敗戦時50歳。入獄18年間)、志賀義雄(敗戦時44歳。入獄17年間)、宮本賢治(敗戦時36歳。入獄11年間)らを中心に、合法政党として再建されます。 昭和30年の「六全協(第6回 全国協議会)」以後、旧ソ連から押し付けられてきた武力革命路線を明確に退けて、「資本主義の枠内での民主主義革命」「議会を通じての改革」を目指すようになりました。中国の大国主義、覇権主義、人権侵害についても、「社会主義」「共産党」に値しないと批判、「自主独立」路線を貫いています。 国内においては一致できる範囲で他党との協力を打ち出し、近年の野党共闘においては、どの党よりもブレない毅然とした態度を取っています(令和2年7月14日現在)。 「六全協」における突然の武力革命路線の否定について行けなかった(ついて行かなかった)者たちの一部が、新左翼や過激派になりました。 いまだ公安調査局が「破防法(破壊活動防止法)」で「日本共産党」を監視対象にしているのは、以上の理由(60年以上前に武力革命路線を否定した)から全くおかしなことです。戦前から平等を目指して戦ってきた日本共産党を弾圧してきた側(特高関係者や戦犯関係者)の流れを組む人たちが日本の中枢にデンと構えているからでしょうか? 中傷したい人たちが、現在の「日本共産党」と、中国、北朝鮮、ソ連、新左翼、過激派を一緒くたにして、または戦前の「(武装)共産党」「(非常時)共産党」「大森銀行ギャング事件」「リンチ事件」などを例にあげて、「共産党こわ〜い」とかやるので注意が必要です。反共勢力の方がずっと「こわ〜い」ですよ?
■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日 |