{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

日本近代文学の発祥(明治35年10月19日、東京専門学校が早稲田大学と改称)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坪内逍遥の「シェークスピア全集」全40巻翻訳完成を記念して、昭和3年、早稲田大学内に建てられた「演劇博物館」(東京都新宿区西早稲田一丁目 6-1 map→ Website→)。逍遥が日本近代文学に果たした役割は大きい

 

明治35年10月19日(1902年。 創立20年を迎えた東京専門学校が、早稲田大学と改称し、改めて開校式が執り行われました。伊藤博文(61歳)が演説したようです。

明治35年時点では、学位の授与ができるのは、「帝国大学令(明治19年)」で定められた2校(東京帝国大学と京都帝国大学)でしたが、早稲田大学だけには、特別に「大学」と称することが認められたとのこと。「(帝国)大学」に匹敵する実績が認められたのでしょうか。「大学令」によって正式に大学設立が可能になるのは大正8年ですから、早稲田大学は他の大学よりも17年も前から「大学」でした。

ちなみに、慶應義塾大学は、「大学令」施行(大正8年)後、初めて指定された大学。大正9年設立です。学校の原型は幕末からありましたが、設立者・福沢諭吉は幕府に登用された人だったので、早稲田大学の大隈重信のようにはいきませんね。福沢は明治34年(66歳)に、大学になった慶應義塾を見ずに死去。翌明治35年に早稲田大学が誕生というのも偶然には思えません。福沢の目の黒いうちは、東京専門学校のみ優遇するのが憚られたのではないでしょうか。

早稲田大学は東京専門学校時代を含め、文学関係者を輩出してきました。 当地(東京都大田区)にゆかりある人に限っても、以下生年順に、●近松秋江(明治9年生まれ。現・山王四丁目に住んだ)、●正宗白鳥(明治12年生まれ。千束に住む)、●北原白秋(明治18年生まれ。現・東馬込二丁目に住んだ)、●国枝史郎(明治20年生まれ。現・大田区内を点々とした)、●保高徳蔵(明治22年生まれ。現・南馬込二丁目に住んだ)、●日夏耿之介(明治23年。現・山王一丁目に住んだ)、●岡田三郎(明治23年生まれ。現・山王二丁目に住んだ)、●広津和郎(明治24年生まれ。現・南馬込二丁目に住んだ)、●葉山嘉樹(明治27年生まれ。入新井第一小に来たことがある)、●吉田甲子太郎(明治27年生まれ。現・南馬込二丁目に住んだ)、●高田 保(明治28年生まれ。鈴ヶ森あたりに住んだ)、●牧野信一(明治29年生まれ。現・山王一丁目に住んだ)、●尾﨑士郎(明治31年生まれ。現・南馬込四丁目や山王一丁目に住んだ)、●真船 豊(明治35年生まれ。現・南馬込五丁目や山王二丁目に住んだ)、●松本克平(明治38年生まれ。旧・馬込東一丁目に住んだ)、●火野葦平(明治40年生まれ。池上に住んだ)、●小沢昭一(昭和4年生まれ。蒲田に住んだ)、●中村一枝さん(昭和8年生まれ。山王一丁目ご在住)、●恩田 陸さん(昭和39年生まれ。西馬込二丁目の給水塔を舞台にした『給水塔』を書く)、●絲山秋子さん(昭和41年生まれ。蒲田に住み、そこを舞台にした『イッツ・オンリー・トーク』を書く)などなど。北原白秋葉山嘉樹尾﨑士郎真船 豊松本克平火野葦平らは、「学校という器」に収まらなかった中退組です。

尾崎士郎

大正6年6月から9月22日までの2〜3ヶ月間に「早稲田騒動」がありました。学長の天野為之(56歳)の任期切れを機に、大隈内閣入りした高田早苗(57歳)が内閣解散とともに大隈を担いで天野を追い出して学長に返り咲こうとしたのに学生が反発します。また、学内に大隈重信夫人の銅像を立てることにも反対。銅像を立てるなら直接的な功労者にすべきと。学生たちは今よりもずっと自治意識が高かったようです。学生たちは早稲田出身の石橋湛山(32歳)の東洋経済新報を拠点とし、学生側のリーダーは政治科の学生だった尾﨑士郎(19歳)でした。 尾﨑の名は連日のように新聞に出て、都内の政治科の学生で彼の名を知らない者はいないほどだったとか。騒動はほどなく鎮静しますが、尾﨑はその後も普選運動に挺身。2年後の大正8年1月(20歳)、早稲田大学を除籍となります。尾﨑はその時の経緯を『人生劇場(青春篇)』に書いています。

------------------------------------------------------

尾﨑の話になりましたが、話を早稲田大学に戻し、なぜ、この学校からたくさん文学関係者が出たのでしょう?

坪内逍遥

東京専門学校が創立した明治15年の翌明治16年から当校で講師を務めた坪内逍遥(24歳)の影響が大きいようです。

明治18年、逍遥(26歳)は 『小説神髄』を書き、それまでの勧善懲悪の道徳的読物、特定の政治思想を啓蒙するための政治小説、功利主義的な“役に立つ小説”を否定し、小説で人情や風俗を描くことを推奨しました。心理描写を旨とする「写実」が意識されるようになって、ここに日本の近代文学がスタートしたとされます。逍遥は理論だけでなく小説『当世書生気質』でそれを実践してみせました。以前から「書物による学芸全般」を指す「文学」という言葉がありましたが、逍遥の上記2書によって、 「文学」が「写実主義にもとづく近代文学」を指すようになるようです。明治24年には文芸誌 「早稲田文学」(主宰:逍遥)が創刊。近代文学の震源地となります。

慶應関係者が多く集う文芸誌「三田文学」が創刊されるのが明治43年ですから、文学の“早慶戦”はまだ先の話ですね。

「演劇博物館」前の坪内逍遥像*
「演劇博物館」前の坪内逍遥

 

尾﨑士郎 『早稲田大学 (岩波現代文庫)』 尾﨑士郎 『人生劇場(青春篇)』
尾﨑士郎『早稲田大学 (岩波現代文庫)』 尾﨑士郎 『人生劇場(青春篇)』
坪内逍遥 『小説神髄 (岩波文庫)』 坪内逍遥 『当世書生気質(名著複刻全集 近代文学館30)』 ※国会図書館デジタルコレクション→ ※活字で読むなら→
坪内逍遥『小説神髄 (岩波文庫)』 坪内逍遥 『当世書生気質(名著複刻全集 近代文学館30)』 ※国会図書館デジタルコレクション→ ※活字で読むなら→
柄谷行人『日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫) 』 安藤 宏『日本近代小説史 (中公選書)』
柄谷行人『日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫) 』 安藤 宏『日本近代小説史 (中公選書)』

■ 馬込文学マラソン:
国枝史郎の『神州纐纈城』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→  
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
牧野信一の『西部劇通信』を読む→
真船 豊の『鼬』を読む→

■ 参考文献:
・『評伝 尾﨑士郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)
  P.66-70

・ 『新潮 日本文学小事典』
 (昭和43年発行 昭和51年6刷参照) P.788 (坪内逍遥の項)

■ 参考サイト:
ウィキペディア/早稲田大学(平成29年10月9日更新版)→
ウィキペディア/旧制大学(平成29年10月6日更新版)→
ウィキペディア/大学令(平成29年7月26日更新版)→
ウィキペディア/伊藤博文(平成24年10月16日更新版)→
ウィキペディア/慶應義塾大学(平成30年10月17日更新版)→
ウィキペディア/坪内逍遥(平成28年10月5日更新版)→
ウィキペディア/小説神髄(平成26年10月15日更新版)→
ウィキペディア/日本の近現代文学史(平成28年10月16日更新版)→
ウィキペディア/日本文学(平成24年9月13日更新版)→

早稲田と文学→

YAHOO! 知恵袋/小説家の人、早稲田大学出身の方多くないですか?→

※当ページの最終修正年月日
2018.10.19

この頁の頭に戻る