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坪内逍遥の「シェークスピア全集」全40巻翻訳完成を記念して、昭和3年、早稲田大学内に建てられた「演劇博物館」(東京都新宿区西早稲田一丁目6-1 Map→ Site→)。逍遥が日本近代文学に果たした役割は大きい
明治35年10月19日(1902年。 創立20年を迎えた東京専門学校が、早稲田大学と改称、改めて開校式が挙行されました。 明治35年時点で学位の授与ができたのは2帝国大学(東京帝国大学と京都帝国大学)だけでしたが、早稲田にだけは、特別に「大学」と称することが認められたのです(慶應義塾の創始者・福沢諭吉が生きているうちは特例が出されなかった。福沢は前年の明治34年に死去。「大学令」によって大学設立が可能になるのは17年後の大正8年で、指定第1号が慶應義塾大学)。
開校式で、東京専門学校の創立者の一人・大隈重信(64歳)が登壇し、当校20年の歴史を述べた後、「学問の自由」「学問の独立」を強調。 ・・・国民の意思が、常の政府の意見と同一になるということはないのである。ある場合においては政府の意見と国民の意思と その後、文部大臣、日銀総裁、帝国大学元総長と挨拶が続き、最後に伊藤博文(61歳)が壇上に上がりました。4年前(明治31年)、日本で初めての政党内閣を組織した大隈は、藩閥に立脚した伊藤からしたら政敵です。その伊藤が来たのです。早稲田大学が営業に流れず、かつ、官費を仰がずにやっていることに賛辞を送りました。 伊藤は、明治21年発足した第一次伊藤内閣で大隈を外相につけるといった見識と度量もありました。業務内容について無知であっても身内を登用する(または党利党略で登用する)堕落した今の内閣からは想像できませんね。 この早稲田大学開校式は、これら 鳩山和夫・早稲田大学校長は、開校式冒頭の挨拶で、大隈夫妻、高田早苗(42歳)、天野為之(41歳)のほか、坪内逍遥(43歳)の功績も讃えました。 坪内は、東京専門学校の創立の翌年(明治16年)から講師を務め(当時24歳)、内外に絶大な影響を及ぼしてきました。 明治18年(26歳)、『小説神髄』を書き、それまでの勧善懲悪の道徳的読物、特定の政治思想を啓蒙するための政治小説、功利主義的な“役に立つ小説”を否定し、小説で人情や風俗を描くことを推奨しました。 ・・・この人情の奥を 心理描写を旨とする「写実」が意識されるようになって、日本の近代文学がスタートします。逍遥は理論だけでなく小説『
「文学をやるなら早稲田」といった感じがあったんだろうとし、今もあるのでしょう。文学を志す若者が、東京専門学校時代を含め、続々と集まり、帝大系・三田系(慶応系)・その他の文学者とはまた違った、ユニークな才能が輩出します。当地(東京都大田区)に住んだり、当地を舞台にした作品を書いた作家に限っても、近松秋江、正宗白鳥、北原白秋、国枝史郎、保高徳蔵、日夏耿之介、岡田三郎、広津和郎、葉山嘉樹、吉田甲子太郎、高田 保、牧野信一、尾﨑士郎、真船 豊、松本克平、火野葦平、小沢昭一、中村一枝、恩田 陸、絲山秋子などなど。北原白秋、葉山嘉樹、尾﨑士郎、真船 豊、松本克平、火野葦平らは中退組(「学校という器」に収まらなかった人たち)です。 芥川賞受賞者は、第1回受賞者の石川達三はじめ、戦場で受賞した火野葦平など、早稲田で学んだ人がダントツです。八木義徳、三浦哲郎、三田誠広、辺見 庸、堀江敏幸、綿矢りさ、黒田夏子など30人に達し、東大の20人、慶応の9人を大きく引き離し、直木賞受賞者も、早稲田で学んだ井伏鱒二、立原正秋、五木寛之、野坂昭如、阿刀田 高、青島幸男、重松 清、角田光代、三浦しをん、朝井リョウなど35人に達し、東大が13人、慶応が14人なので、ダブルスコアー以上です。 明治24年、坪内逍遥(32歳)が、文芸誌 「早稲田文学」を創刊。海外の先端の文学を紹介し(翻訳不能とされたジョイスの実験的長編『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳など)、自然主義文学はじめあらゆる文学思潮を取り上げて、日本近代文学をリードしてきました。戦中、自由主義的精神を貫いたことも特筆すべきでしょう。現在も、学閥文学誌に堕することなく(採用に迷う場合は早稲田出身者でない方の作品を選ぶとのこと)、 東大系の文芸誌「新思潮」の創刊が明治40年(「早稲田文学」創刊の16年後)で、慶應系の文芸誌「三田文学」の創刊が明治43年(「早稲田文学」創刊の19年後)であることからも、日本近代文学における早稲田の先進性が分かります。 自由を尊ぶ学風からか、大正6年6月から9月22日までの2〜3ヶ月間、「早稲田騒動」がありました。学長の天野為之(56歳)の任期切れを機に、大隈内閣入りしていた高田早苗(57歳)が内閣解散とともに大隈を担いで天野を追い出して学長に返り咲こうとしたのに学生が反発したのです。また、学内に大隈夫人の銅像を立てることにも、銅像を立てるなら直接的な功労者のものにすべきと、学生たちは反対。学生たちは早稲田出身の石橋湛山(32歳)の東洋経済新報を拠点とし、政治科の学生だった尾﨑士郎(19歳)がリーダーでした。 尾﨑の名は連日新聞に出て、けっこうな有名人になったようです。騒動はほどなく鎮静しますが、尾﨑はその後、普選運動に挺身。2年後の大正8年1月(20歳)、早稲田大学を除籍となります。尾﨑はその時の経緯を『人生劇場(青春篇)』(Amazon→)に書いています。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |