|
|||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
|
大正5年5月17日(1916年。
宗教的集団「 ・・・私は 3年前の大正2年、西田 倉田は性愛を積極的に肯定する立場をとっていましたが、大正2年(22歳)、失恋し、また、結核になって第一高等学校の退学を余儀なくされます。それまでの考えが“健康を前提にしたもの”であることを思い知りました。そこで見出したのが一燈園。進む道を、体(経験)でつかもうとしたのです。 しかし、上の手紙が示すように、入園当初から迷いが生じます。西田が欲望を否定すればするほど、倉田は自分の中に深く組み込まれている欲望を強く感じるようになります。そして、7ヶ月足らずで一燈園を去りました。自身の「美的欲求」も受け入れ、また、「宗教的な清らかなる道」も断念することなく、その二律背反そのものを受け入れて、“弱い人間”として歩む覚悟がついたようです。倉田が一燈園退園直後から書き始めた戯曲『出家とその弟子』は、若い僧侶が遊女に恋する話です。当時の倉田の哲学的テーマが色濃く反映されています。 自身の欲望(ここでは主に性欲)をどう受け止めるかは、「永遠の問題」でしょうか。28歳の志賀直哉も日記に書いています。 健康が欲しい。 健康なからだは強い性慾を持つ事が出来るから。ミダラでない強い性慾を持ちたい。 志賀も理想に燃えて、18歳で内村鑑三(49歳)に入門、以後7年間内村の元に通いました。しかし、志賀には聖書の言葉でどうしても受け入れられないものがありました。『新約聖書』の「マタイによる福音書」第5章にある「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに 「姦淫」とは正式な配偶者以外と関係をもつことで、『旧約聖書』の
志賀は正直なので、上の聖句にひっかかりました。志賀も倉田のように、最初は押さえがたい性欲を信仰によって「浄めよう」としますが、しょせん無理。苦しんだあげくに、上の聖句は「人間として不自然」と結論、明治41年、25歳のとき内村の元を去りました。 この頃志賀は、性欲と姦淫の問題に真っ向から取り組んだ 『濁った頭』 (Amazon→)という小説を書いています(明治44年28歳)。教会に通っていた青年が、大して好ましいとも思わない親戚の未亡人と関係を持ってしまい、生活をどんどん壊してゆき、しまいには彼女を殺害し、自らは発狂するという悲惨な話(青年の妄想なのかもしれない)です。縛りから脱する「脱出譚」に留まらず、自由・欲望に溺れる怖さも書き切りました。 内村の元を去った志賀は、金銭を介した性的交渉もありと考えるようになったようで、半自叙伝『暗夜行路』の主人公を遊郭にあがらせ、「女」の乳房をプルンプルンさせています。 ・・・彼はしかし、女のふつくらとした重みのある乳房を柔かく握つてみて、
賛否があるとは思いますが、自らの性欲を受け入れて、“暗夜”を一つ越えた明るさがあります。 他の作家は性欲にまつわることをどう書いてきたでしょうか。 かの『雪国』(川端康成)にも次のようなかなり際どい描写があります。 ・・・島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会ひに行く女をなまなましく覚えてゐる、はつきり思ひ出さうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れてゐて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのやうだと、不思議に思ひながら、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが・・・(川端康成『雪国』より) 妻も子もいる「島村」が「これから会ひに行く」のは芸者の駒子で、「この指だけが」「覚えてゐる」ということは、つまり“そういうこと”があったということでしょう。 しかし、こういった金銭を介した性交渉や不倫が認められる場合でも、ほとんどが男性に限られました。反対に女性には常に純潔が求められてきた(そりゃ、嫉妬もしますね。「嫉」も「妬」も女偏なのは、そういった差別の痕跡)。こういった男性中心の考え方・社会に、NOを言い続けたのが吉屋信子です。『女の階級(Amazon→)』『夫の貞操(Amazon→)』といった小説で鋭く問題提起しています。 金銭を介した性的交渉(お金を払って握手なども)がダメなのなら、過剰な性欲をどうすればいいでしょう。避妊、衛生、人権に留意して自由にやればいいでしょうか? いかなる場合もプラトニックに落とし込んでいくべきでしょうか? はたまた、ひたすらにオナニーでしょうか?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |