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小島政二郎の『眼中の人』を読む(偉大な友から学ぶ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著者・小島政二郎は明治27年生まれ。芥川龍之介が明治25年生まれの2歳年長で、菊池 寛が明治21年生まれで6歳年長だ。彼ら二人が、小島にとっての“眼中がんちゅう の人(いつも眼中においておく人)”となる。

芥川のことは最初から尊敬した。

「なんとも言えない澄んだ目」は「鋭くって、瑞々みずみずしくって叡智に濡れて」おり、「長い睫毛まつげ が、一抹の陰影を添えて」おり、外見も申し分ない。

小島が難渋していたロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』(豊島与志雄とよしま・よしお 訳)を、芥川は英訳版(全4巻、1705頁。)で1週間で読破、小島に適切なアドバイスもしてくれた。その本が小島のかけがえのない一冊となる。

芥川はすでに売れっ子で、また、やることなすことが粋だ。そんな芥川に、小島は一も二もなく参ってしまう。

ところが、もう一人の菊池 寛はというと、いただけない。

菊池は、無骨で、遠慮がなく、 「相手の骨まで切り下ろす」ような口の悪さもあった。小島の神経は、菊池の言動に逆撫でされる。それに、菊池の書くものがまたひどい。荒削りで、正統派の文章を愛する小島には全く感心できないのだった。

ところがある日、菊池の評価が逆転する。

彼の小説を何気なく再読して、小島はおやっと思う。たしかに荒削りで、悪文とさえいえる。しかし、そこにひしめく緊迫感は何だ!? 期せずして、菊池の小説に感動してしまう。

そんなこともあって、菊池という人間を見直すと、今まで粗野にしか見えなかったのに、それが、人並み外れたおおらかさだったり、温かさだったり、情熱だったり、勇気だったり。

菊池が睡眠薬を飲み過ぎて混濁状態に陥るということがあった。その意識朦朧の中でも古今東西の名文をそらんじる菊池に、小島は驚嘆した。

芥川は最初から同じ方向性だったが、菊池はまったく異質の人。菊池という人間を知って、小島は、自分に徹底して欠如しているものに気づき、それを突きつけられ、よって、今までの価値観が揺らぎ、自信をなくし、自己嫌悪し、しまいには筆を折る瀬戸際までいってしまう・・・、ここからが小島の戦いだ。


『眼中の人』について

小島政二郎 『眼中の人』

小島政二郎の自伝的小説。2人の友人、芥川龍之介菊池 寛からの影響を主軸に、自身の文学遍歴が書かれている。昭和10年(41歳)「改造」に発表され始め、7年後の昭和17年に(48歳)ようやく単行本化(三田文学出版)された。小島は内務省からマークされていたため(2つの検閲基準のうちのおそらく「風俗」の観点から)、出版が難航したが、当時、小島に入れ込んでいた和田 芳恵よしえ (小説家・文芸評論家・編集者 Wik→)が、本書の文学資料としての価値を訴え、本書だけは戦中出版に漕ぎ着けた。

昭和42年(73歳)に発表した第二部『眼中の人』(『続・眼中の人』)には、32歳年下の女性(娘の美籠みこ より2つ若い)との交流を通して、通俗小説に身をやつしていた小島が文学的に蘇生する様が描かれている。この女性とは前年(昭和41年。小島72歳)より同居、結婚する。第二部では彼女が「眼中の人」なのだろう。

■ 作品評
●「実名で出てくる著名な作家たちは、精巧無類な描写力で、作者とともに、現場に立ち上がっているように活き活きと描かれている」(和田芳恵)

●「私の作中、一番まじりッけのない、純粋な、書かずにゐられなくつて書いた小説だけに、私には忘れられない作品だ。今の私から見ると、下手な、しかし一途な小説 」(小島政二郎の自評)


小島政二郎について

当地(東京都大田区山王二丁目)在住時の小島政二郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『小島政二郎全集 第十二巻』(主婦の友社)
当地(東京都大田区山王二丁目)在住時の小島政二郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『小島政二郎全集 第十二巻』(主婦の友社)

在学中、作家批評で認められる
明治27年1月31日、東京上野下谷町したやちょう (現在の台東区の西部あたり)の呉服商の次男として生まれる。 慶応大学在学中、17人の作家の誤字・誤用を指摘した随筆「オオソグラフィイ」(オーソグラフィーとは綴り方、正書法の意)を発表、森 鴎外から感動と反省の手紙が届く。大正7年(24歳)より児童雑誌「赤い鳥」の編集に携わった。

伝記小説を得意とする
大正11年(28歳)、鈴木三重吉夫人の妹と結婚。翌年、知り合いの講釈師・神田伯龍をモデルにした『一枚看板』で人気を得る。その他、『芭蕉』(昭和18年、49歳)、 『円朝 Amazon→』(昭和32年、63歳)、 『小説 葛飾北斎 Amazon→』、慶応時代からの親友・村松梢風と彼をめぐる女性たちについて書いた『女のさいころ』(昭和36年、67歳)、 『鴎外荷風・万太郎』(昭和40年、71歳)、『明治天皇』(昭和42年、73歳)、 谷崎潤一郎を書いた『聖体拝受』(昭和44年、75歳)、 魯山人を書いた『北洛師門』(昭和46年、77歳)、 『長篇小説 芥川龍之介』(昭和52年、83歳)、寄席の名人たちを書いた『八枚前座』、『初代中村吉右衛門』(昭和57年、88歳)など多数の伝記小説を残す。自身のことも他のことも「丸裸」にするのが小島の信条なので、モデルになった人たちはおののいた。

一般ウケを狙った作品も多く手がけ、映画化されたものも多い。 ●日本映画データベース/小島政二郎→

大正8年(25歳)から慶応義塾大学文学部講師を務める(のちに教授。昭和6年(37歳)退職)。自らも真摯に学ぶ謙虚な姿が印象的だったという。 藤浦 洸小島の「 古今著聞集 ここんちょもんじゅう 」(鎌倉時代に成った726話からなる説話集)の講義を受けている。藤浦の名の「洸」の由来を問うてきたという。

昭和10年(41歳)に芥川賞と直木賞が制定されると両賞の選考委員となり、第16回(昭和17年)まで務めた。

100年と52日生き、平成6(1994)年死去する。( ) 。

山田幸伯『敵中の人 ~評伝・小島政二郎~』。永井荷風、今 東光、永井龍男、松本清張、立原正秋らから小島がいかに嫌われたかを通し、小島の独自性を浮き彫りにする 小島視英子(みえこ) 『天味無限の人〜小島政二郎とともに〜』(彌生書房)。『眼中の人(第二部)』に出てくる32歳年下の妻は、小島との生活をどう生きたか
山田幸伯『敵中の人 ~評伝・小島政二郎~』。永井荷風、今 東光、永井龍男、松本清張、立原正秋らから小島がいかに嫌われたかを通し、小島の独自性を浮き彫りにする 小島視英子みえこ 『天味無限の人〜小島政二郎とともに〜』(彌生やよい 書房)。『眼中の人(第二部)』に出てくる32歳年下の妻は、小島との生活をどう生きたか

小島政二郎と馬込文学圏

昭和12年(43歳)、当地(現在、マンション「コンセール大森山王」(東京都大田区山王二丁目6-6 map→)が建っている辺り)に越してきた。この頃、大衆的作家として人気の絶頂にあったが(大ヒット作『新妻鏡にいづまかがみ 』も大田区時代の作)、体制側から干され始める時期にも当たる。尾﨑士郎らの“馬込文士村”連とはさほど交流がなかったが、その中の鈴木彦次郎は小島の家に出入り、鈴木に相撲小説を書くのを進めたのも小島だった。かつて作家志望の慶応の教え子たちが週一回小島の元に集まっていたが、平松幹夫や今井達夫が近辺にいたことから再開される。山本周五郎を含め3人が酔った勢いで押しかけ、小島にステッキで追い返されたこともあった。昭和19年(50歳)、鎌倉に疎開、当地にいたのは7年ほどとなる。

作家別馬込文学圏地図 「小島政二郎」→


参考文献

●『小島政二郎全集 第十二巻』 (鶴書房 昭和42年発行 ※解説:和田芳恵)P.152-168、P.212-220、P.492-498 ●『敵中の人 〜評伝・小島政二郎』(山田幸伯ゆきのり 白水社 平成27年発行)P.64-66、P.244-245、P.284-285、P.467、P.520-521、P.680-681、P.689、P.692 ●『鎌倉のおばさん(新潮文庫)』(村松友視 平成12年発行)P.57-89 ●『十五年戦争下の登山(研究ノート)』(西本武志 本の泉社 平成22年発行)P.204

※当ページの最終修正年月日
2021.10.5

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