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食うだけは稼がねば人間日干しだが、だからといって 「年収○○○万円のいい仕事」といった仕事観だけでは、悲しすぎる。それじゃ私の立つ瀬がない、といった個人的なことだけではなく、そういった仕事観がもてはやされ、また、そのもてはやされる恐さがさほど問題にされない恐さ。ズルする人が絶えないのはそのため?とも思う。収入が多ければ結果オーライな人は、そのプロセスとか、その仕事への志とかはさほど重要でないのかもしれない。* で、そもそも「仕事」とは何なのか?* 言い古された感もあるが、やはり文字通り「事に仕えること」*と考えたい。それがピュアな意味であろう。だから、仕事に言及するときは、その“事”が、自分にとって、また社会にとってどういう意義があるかがまず問題だ。稼ぎの多寡はあくまで副次と考えたい(人間日干しも、ぜひぜひ避けたいが)。* その考えに立てば、この本『大田文学地図』の著者染谷孝哉なんかは、すばらしき仕事人だ。彼の台所事情を心配した友人らが彼に仕事を紹介していたというから、彼の稼ぎはおそらく多くなかったのだろう。それでも彼が仕事人といえるのは、まさに「事に仕える」ことに一生を捧げたからだ。仕事を紹介された時、彼は週三日以上の仕事は頑なに拒んだという。それは彼にはすでに「仕事」があり、それでそうとう手一杯だったから。* その前からの「仕事」の集大成が、この『大田文学地図』である。* 半端じゃない。 この本の索引には364名の名前がずらりと並ぶ。これらの作家を東京都大田区という一地域に結びつける作業が彼の “事”であり、それに仕えることが彼の「仕事」だった。*
染谷さんの自宅兼仕事場だった住吉荘というアパートが、当地(東京都大田区山王四丁目)に近年まで建っていた。弁天池を正面にして、その右手の、ちょっと見落としてしまいそうな感じに奥まった幅の狭い階段を上っていくと、右手にその懐かしい形のアパートが現れた。染谷はこの一室で、一人、毎日毎日コツコツと 「仕事」したのだろう。* 彼はすばらしき仕事人だ。*
『大田文学地図』 について
染谷孝哉による当地(東京都大田区)の文学案内書。 昭和46年(染谷53歳)発行された。* 昭和30年頃(37歳頃)から日本文学協会の京浜支部ニュース「
当地の弁天池(東京都大田区山王四丁目23-5 map→)から木原山に上る細い階段。その右手に建っていた「住吉荘」に、母と二人で暮らした染谷は、昭和45年その母を失う。当地の文学仲間(飲み仲間)が、染谷の気持ちを慰めるために本書の出版を企画した(最初染谷は本にするほどのものでないと辞退したが、仲間の熱心な推奨があった)。染谷も常連だった泡盛屋 「河童亭」(「きらぼし銀行(大森支店)」(東京都大田区中央一丁目7-1 map→)の駐車場あたりにあった)の主人・かのう・すすむを中心に、城戸 昇、久保田正文、添田知道、吉野 裕、関口良雄、
なお、染谷の死後、続編 『大田文学地図 2』(平成5年 城戸昇編)も発行された。さらには、両書(『大田文学地図』 『大田文学地図2』)に収め切れなかった染谷の原稿は、城戸昇の手で 「季刊 わが町あれこれ」 にも収録されている。 ■ 作品評 染谷孝哉について
地域文学研究に捧げられた一生 著書には、この 『大田文学地図』 の他に、 『鎌倉 もうひとつの
東京都大田区内の図書館などで文学講座の講師も務めた。 昭和61(1986 )年11月7日、馬込文学圏(大森東)の大田病院で死去。死因は肺がん。68歳だった( )。
染谷の死後、上掲書に収りきらなかった原稿が埋もれるのを惜しんだ城戸昇は、7年の歳月を費やして、平成5年、染谷の遺稿をまとめて 『大田文学地図 2』 を出版。 また、平成6年には大田文学のネットワーク誌 「わが町あれこれ」 を創刊して、 「『大田文学地図』 落ち穂拾い」 を連載、染谷の原稿の公表につとめた。 染谷孝哉と馬込文学圏関東大震災で被災したためか、大正13年(5歳)、小石川から家族で馬込文学圏に移転。 後年、馬込町東二丁目(現・山王四丁目 17)の借家で母親と二人で暮らすが、後に近くの住吉荘(新井宿二丁目、現・山王四丁目 21-19)に転居。 母親の死後も一人そこに住み、終の棲家とした。 参考文献●「わが町あれこれ(第2号)」(編・発行: ※当ページの最終修正年月日 |