ロートレックが描いたパリ・モンマルトルの娼婦たち。性病の検査を受けるために並んでいるところのようだ。ロートレックは娼婦たちと生活を共にし、彼女たちを敬愛した ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「ムーラン・ルージュのダンサーたち 〜ロートレックが愛した19世紀末のパリ〜」(文:中村潤爾 写真:若月伸一)(ONTOMO(音楽之友社)→)
昭和20年8月18日(1945年。
内務省から警視庁と各県へ、「外国軍駐屯地に於
る慰安施設について」という通達がありました。
性的サービスを提供する「特殊慰安所」を設置し、連合国軍の兵士たちの性欲のはけ口とし、彼らが性犯罪に走らないようにするのが目的でした。日本は8月14日にポツダム宣言を受諾、3日後(8月17日)に東久邇宮
内閣が組閣されるや翌日にはこの通達です。「特殊慰安所」の設置をいかに重要視したかが分かります。
8月22日、内閣は1億円という巨費(1万円あれば都心に家が建った時代)を投じて「RAA(Recreation and Amusement Association=レクリエーション・お楽しみ協会) 」を設立。 8月27日、当地(京浜急行「大森海岸駅」(東京都品川区南大井三丁目32-1 map→)近く)の高級料亭「小町園」が、「特殊慰安所」の第一号に指定されます。当地(東京都大田区)の花町はかつてから知られていました。
「特別女子従業員」は次のような広告で集められました。
急告
特別女子従業員募集
衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、
地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス
東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会
(昭和20年9月4日「毎日新聞」掲載広告)
連合国軍の第一陣が到着する8月27日までに1360名の女性が集められました。空襲で家を焼かれ、家族も離散した女性も多かったのでしょう、みな着の身着のままで、10人中9人が裸足(素足ではなく裸足)だったそうです。「衣食住及高給支給」といった好条件にひかれて集まってきたことでしょう。
「小町園」には元から20人ほど女中がいましたが、新たに30人が加わりました。官庁のタイピストだった人、軍人の娘、復員してこない軍人の妻、女学生など様々だったそうです。連合軍の兵士にサービスすることは分かっていても、それが性的なものとは知らされず、集まった女性の中には男性経験のない女性もいたそうです。法律で「強制」とは「自由意志でないこと」。騙されたのなら、それは強制された」ことになります。日本軍の従軍慰安婦についてもいえることです。
8月27日、連合国軍の第一陣が神奈川県厚木に到着すると、その晩にはもう、「小町園」に5人の米兵がやってきて、10日もすると10台20台とジープでわんさかやって来るようになります。そうなると“
素人
”の女性だけでは間に合わず“玄人
”(プロ)の女性も呼ばれ、また、“素人”の女性は「教育」を受けるために歓楽街に送られることもあったとか。性病が蔓延し、精神を病む人もいたそうです。「兵士の性犯罪から女性を守る」名目の施設で、女性が犠牲になったという皮肉。
当時「小町園」で女中をしていた糸井しげ子さんが次のように書いています。
・・・現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することをだれも信じて頂けないのではないかと、おそれるのですが、でも、小町園の柱の一つ一つ、壁の一面一面には、日本の娘の、貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついている筈
なのです。・・・(中略)・・・一人の男がなかに入ると、あとの列が、一つづつ前へ進みます。まるで、配給の順番でも待っているようです。その列が、廊下にあふれ、玄関に延び、時には、表の通りまで続くときがありました。・・・(中略)・・・みんな、素人の娘さんたちなのです。
はじめての日に処女をやぶられて、一晩に一人の男の相手をするだけでも、心がつぶれるほどの事だったでしょうに、毎日、ひるとなく、夜となく、一日に最低十五人からの、しかも戦場からきた男のひとを相手にしなくてはならないのです。
素人の女ですから、要領というものを知りません。
はげしくあつかわれれば、正直に、女の哀しさを見せてしまいます。・・・(中略)・・・それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの、縮図だったのです。・・・(中略)・・・あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。・・・(『証言 昭和二十年八月十五日 敗戦下の日本人』より)
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「小町園」の位置。「海外」とあるのは現在の「大森海岸駅」。「小町園」の南隣の「悟空林」も「特殊慰安所」になった ※「大森区詳細図」(日本統制地図株式会社 昭和17年発行)より |
「小町園」があったあたりの現況。手前の広い道は第1京浜(国道15号線) |
「特殊慰安所」はRAAの施設の他、各都道府県も独自に設置しました。
スレてくる女性、プロの女性も増え、積極的に米兵にこびを売る女性も出てきたのでしょう。添田知道(43歳)が、当時の当地の様子を次のように書いています。
・・・国道沿ひの大料亭みな 「ダンシング アンド ドリンクス」 と掲げてゐる。 縮れ毛と赤唇の女がうろうろ、あさましい顔。 軍需産業連の享楽地帯が国際売笑地帯になってゐるのだ。 舗道に立って尻を振ってゐるもある。 得意の如し。 ジープに合図をしてゐる。 あゝ、これも敗戦の謳歌者である。 無智、無恥の街道である。・・・(添田知道『空襲下日記』(昭和20年12月5日)より)
日本は 「鬼畜米英」 から 「ダンシング アンド ドリンクス」 へとあんがい軽々と(?)シフトしたようです。
日本上陸当初からGHQ内には、「特殊慰安所」内で女性が意思に反して売春
を強いられる可能性や、性病の蔓延を危惧する声があり、建前上は兵士の
買春(「ばいしゅん」とも読むが、「買春」と同音で紛らわしいので「かいしゅん」と読むのがいいだろう)を禁止していました。しかし、GHQも一枚岩
でなく、それに従わない一派もあって、「特殊慰安所」を利用する兵士もたくさんいました。案の定、性病の
罹患
率が急上昇し、また買春の事実が本国で報道されるに至り、早くも昭和20年末には、兵士が「特殊慰安所」へ立ち入るのを厳しく禁止します。
「特殊慰安所」での娼婦は政府から公認された公娼ですが、翌昭和21年1月、GHQは公娼制を廃止するよう指令しました。GHQは公娼に限らず、私娼にあっても買春を強いられることを問題視したので、その意向を受けて政府は、昭和21年11月、「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」を決定、買春を目的にした施設を禁止します。しかし、性売買については「社会上已
むを得ない」とし、「正業」を持ちつつ買春することは黙認。その「正業」(施設の多くが旅館、下宿屋、喫茶店、ダンスホールの体裁を取った)と同時に売春も行う店は「特殊飲食店」と規定され、営業できる地域が限定されました(「赤線」の誕生)。その過程で職を失う女性も多く、街娼(この時期に生まれた街娼は「パンパン(ガール)」と呼ばれることも)も多数生まれます。
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吉見義明『買春する帝国 〜日本軍「慰安婦」問題の基底〜 (シリーズ日本の中の世界史)』(岩波書店) |
広岡敬一『戦後性風俗大系 〜わが女神たち〜』(小学館)。解説:木田 元 |
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坂爪真吾『身体を売る彼女たち」の事情 〜自立と依存の性風俗〜(ちくま新書)』 |
木村 聡『消えた赤線放浪記 〜その色町の今は……〜(ちくま文庫)』 |
■ 参考文献:
●「ムーラン・ルージュのダンサーたち 〜ロートレックが愛した19世紀末のパリ〜」(文:中村潤爾 写真:若月伸一)(ONTOMO(音楽之友社)→) ●『証言 昭和二十年八月十五日 ~敗戦下の日本人~』(安田 武 福島鑄郎 新人物往来社 昭和48年発行)P.256-263 ●「大森区詳細図」(日本統制地図株式会社 昭和17年発行) ●『買春する帝国 〜日本軍「慰安婦」問題の基底〜』(吉見義明 岩波書店 令和元年発行)P.221-230 ●『空襲下日記』(添田知道 刀水書房 昭和59年発行)P.271-272 ●「映画『主戦場』のパンフレット」P.5-6 ●『東京大森海岸 ぼくの戦争』(小関智弘 筑摩書房 平成17年発行)P.172-183
※当ページの最終修正年月日
2022.8.18
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