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川端龍子の「源 義経(ジンギスカン)」(部分)。義経が日本風の白馬(右上に顔を出している)を降り、大陸風のラクダ(?)に腰を据えたところか。全体図→ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『川端龍子(現代日本の美術)』(集英社) 原典:川端龍子記念館(東京都大田区中央四丁目2-1 Map→ Site→)所蔵作品 昭和36年3月4日(1961年。 川端龍子(75歳)が、自作 「源 義経(ジンギスカン)」 について、日記に、次のように書いています。 ・・・この一作に思う場合、こうしたものをよくぞ描きおいたものをとの気分もあるのだった。武者絵に何の経験もない私が、何の臆面もなくこうしたものを描き得たということ・・・描かしめたということは、やはり時代の趨勢がそうなさしめたことではある。・・・ (川端龍子『画人生涯筆一管』より) 龍子の「源 義経(ジンギスカン)」の義経は、鎧兜に身をかためてますが、今や白馬を降り、1頭のラクダに腰を据え、キッと前を睨み、大陸への野心を燃やしているかのようです。“義経がジンギスカン(チンギス・ハン、成吉思汗)になろうとする瞬間”なのでしょう。描かれた昭和13年(龍子53歳)は、日中戦争開戦(昭和12年)の翌年。日本は南京を攻め落とし、昭和13年には青島を占領、南京に傀儡政権「中華民国維新政府」を作りました。大陸への野心に燃えた日本人には、義経がチンギス・ハンになって大陸を支配するストーリーがとても受けたことでしょう。上の文の「何の臆面もなく」 「時代の趨勢がそうなさしめた」 というくだりはそこらへんの事情をいっているのでしょう。時代のせいでこういう絵を描いたとし、特に反省するふうではないですね。 この「義経=ジンギスカン説」は明治の中程からこの説が広まり出し、大正13年に
一般的には、義経は、文治5年4月30日(1189年。鎌倉幕府開府の3年前)、奥州(岩手県南部)の衣川の館で死んだとされます。兄の頼朝に追われ、味方として頼りにしていた藤原氏(頼朝からの要請に屈した)に襲撃されて自害して果てたとされます(「義経衣川死亡説」。鎌倉時代末(1300年頃)に成立した鎌倉幕府(北条氏)サイドからの歴史書『
「義経不死説」や「義経北行説」に根拠がないわけではありません。「義経衣川死亡説」では、4月30日に義経は死亡したとされますが、義経を討った藤原泰衡が頼朝に報告したのがその22日後で、首実検のために義経の首が頼朝の元に届くのは43日も後です。43日もたっていたら、生首ですから腐敗が進み、兄の頼朝でも義経と判断できなかった可能性があります。そんなことから、義経は衣川で死んだのではなく、北方に逃がれたという説が生まれました。「義経衣川死亡説」が根拠とした『吾妻鏡』ですら、義経がまだ生きていて鎌倉に攻めて来るとの噂がたったと記しているようです。「義経不死説」は当時からあったのでしょう。その後、義経を討った泰衡も許されず、頼朝から追われる身となりますが、泰衡が目指したのも北方(蝦夷地。北海道)でした。義経も死なずにいたら頼朝から少しでも離れるため北方を目指しただろうとするのも自然なこと。
「義経北行説」のさらなる発展形として、「義経=ジンギスカン説」が生まれました。北海道に渡った義経がさらに韃靼海峡を渡って大陸にいたり、チンギス・ハンになったというのです。興味深いことに、義経が姿を消した年(1189年)あたりから、大陸でチンギス・ハンの存在感が増すようなのです。 チンギス・ハンは、義経より3歳年下で1162年に生まれ(異説あり)。1206年に、モンゴルの全部族を統一してモンゴル帝国の初代皇帝になりました(チンギス・ハン43歳頃)。鎌倉幕府成立(1192年)の14年後ですね。 とはいっても、モンゴルには、チンギス・ハンの生涯を記した 現在の学会は「義経衣川死亡説」を支持し、「義経不死説」や「義経北行説」、ましてや「義経=ジンギスカン説」などは完全否定のようです。 昭和33年、高木 井上 靖の『蒼き狼』の連載は昭和34年の10月からです。高木の『成吉思汗の秘密』の連載・出版のちょうど1年後に当たります。チンギス・ハンの生き様に惹かれて井上は『蒼き狼』を書いたのでしょうが、『成吉思汗の秘密』を読んで「義経=ジンギスカン説」を単純に信じる人が増えるのを危惧した面もあったのではないでしょうか。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日
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