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昭和36年1月18日(1961年。
山本健吉(53歳)が、「読売新聞(夕刊)」に「歴史と小説」という一文を書いて、「『 井上 靖(52歳)が『蒼き狼』を発表したのは昭和34年10月から。モンゴルの遊牧民族を統一し、周辺国を征服、広大なモンゴル帝国を築いたチンギス・カンの生涯を描いた小説です。井上はこの小説で、その「底知れぬほど大きな征服欲」がどこから来るのか、その秘密を解こうと試みました。 チンギス・カン(1162-1227)が生きた時代に近い1200年代、または1300年代のモンゴルの歴史書『
と、モンゴル族の起源が「蒼き狼」であることを伝えています。この部分に着目した井上は、チンギス・カンの征服欲(みな殺しの連続だった)が“モンゴル族の祖なる凶暴なる狼”たらんとしたことに由来したと考え、その考えを柱に『蒼き狼』を書きました。 『蒼き狼』が大好評を得るや、1年ちょっとした昭和36年1月、大岡昇平(51歳)が、『蒼き狼』は歴史小説でないと批判しました。 史料にされた『元朝秘話』には、他にも2箇所「狼」が出てきますが、それらの「狼」には
これらの指摘に対し、井上は、自分が書こうとしたのは史実そのものではなく、史実と史実の間を自分なりに埋めていくことであって、それに説得力がないと言うのなら、それは「その通りであろう」と謙虚に書いています。ただし、雄々しくない「狼」を「山犬」と改竄したとの批判に対しては、昭和18年に出版された
この辺りで山本健吉が論争に参入しますが、紳士的な態度で説得力のある反論を展開した井上に軍配をあげる書き方をします。すると、大岡の批判の矛先は山本の方にも向き、両者の間でも論の 大岡は、井上の謙虚な姿勢を「謙遜なポーズで逃げている」と一刀両断。また、山本が「大岡氏が、歴史小説を試みることを大いに期待」と、そんなに言うのなら自分で歴史小説を書いてみろ的な一文を付したのに対しては、「自分をタナに上げるのは、いわば批評の大前提で、私も批評文を書く時は、同じ特権にあやからしてもらう。ケチなことは言うまいぞ」とやり返します(ちなみに大岡も歴史小説を複数書いている)。 大岡は、原文の「赤那」を井上が「山犬」としたことに対し、蒙古語の『元朝秘史』は元は 井上や山本が、『元朝秘史』自体、長年にわたって、あらゆる権力者のもとで改変・誇張・省略が繰り返されたもので、「史実」そのものでないので(原典は失われ、写本が重ねられた)、それを 大岡のこれらの批判に対し、井上は、ことさら同意も反論もしなかったようですが、論争以後、井上の歴史小説に明らかな変化が現れます。『 「『蒼き狼』論争」で交わされた言葉は激越(特に大岡の言葉が激しい)でしたが、論争が実りあるものになったのは、論者双方に相手に対する尊敬があり、また、文学をより高きに押し上げようとの思いを共有していたからでしょう。現今の“論破ごっこ”には決定的に欠如していることです。 「歴史小説」は学問でないのだから面白ければいい、分かりやすく、感動的に、カッコよく、元気が出るように、癒されるように、ホッコリするように、史実を少しぐらい改変して何が悪い?といった考えが、現在も、作家にも読者にも根強くあるように思います。本になればなったで、売らんかなで「よいしょ記事」や広告があふれます。『蒼き狼』のことも大岡以外の批評家たちは口を揃えて褒めそやしました。「歴史小説」で“歴史”に出会う人も少なくないでしょう。そういった「(似非)歴史小説」で読者の歴史観が作られることに強い危機感を抱き、大岡は“嫌われ役”を買って出たのでしょう。 小説がビジュアル化(映画化、ドラマ化、漫画化、ゲーム化など)されれば、さらに容易に、さらに広範囲に、視聴者が洗脳されることでしょう。好感度の高い俳優やキャラクターが演じれば、歴史上の残虐行為も美談に生まれ変わるかもしれません(作家だけでなく俳優を含め制作サイドの歴史観も当然問われる)。よって、それらの歴史観は小説以上に厳しく問われなくてはなりません。日清日露戦争を描いた『坂の上の雲』は著者の司馬遼太郎が、戦争が美化されることを危惧しその映像化を拒んできました。ところが著者の死後、NHKがドラマ化(平成21年〜)。あれを観て「日清・日露戦争は正しい戦争」と思いこむ人が爆発的に増えたことでしょう。「明治からアジア太平洋戦争までの日本の歴史を正当化したい勢力」(健全な民主主義を構築・維持するには戦前の反省が必要だとはこれっぽっちも思わない人たち)が関与したのではないでしょうか?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |