左の人物が行く道が「八景坂」? それとも、右の二人が上ってくる道が「八景坂」?
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柳田國男 |
昭和11年1月18日(1936年。
柳田國男(60歳)の著書『地名の研究』(古今書院)が発行されました。そこに、当地(東京都大田区)にある「八景坂」について一章を割いて書いています。冒頭に、
・・・どう考へて見ても八景一覧の地とは思はれぬ。・・・(柳田國男『地名の研究』より)
と書き、「八景坂」の「はっけい」は、岡の端の部分を指す「ハケ」(または「ハッケ」)からきているものと推測しています。日射・通風・水利の良い「ハケ」は居住に適していることから、「ハケ」の付く地名が日本各地にあるそうです。
上の絵は、広重の「名所江戸百景」の一枚「八景坂鎧掛松
」の一部を拡大したものです。左の人は岡上を歩いており、右の二人は岡に上ってくるところです。岡上も緩やかな上りのようですが、二人が登ってくる坂はかなり急に見えます。柳田の説を取れば、右の急な坂(ハケ部分)が、本来の「八景坂」となるでしょう。柳田は以下のように断言しています。
・・・八景の見当らない大森の八景坂は、岡の上の村里から浜辺へ下りて行く坂のこと・・・(柳田國男『地名の研究』より)
現在はJR京浜東北線「大森駅」西口(山王口
)前を線路と並行して走る池上通りの緩やかな上り道(絵の岡上の道にあたる)を「八景坂」と呼ぶことが多いようですが、「山王小路
飲食店街」(Map→)へ下りていく階段や、大森駅駅ビル「大森ララ」(Map→)を大森駅北口へ降りていく階段の傾斜が、本来の「八景坂」の傾斜にあたるのでしょう。
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「山王小路飲食店街」(通称:地獄谷)へ下る階段。同商店街は「ひよっこ」(NHK)などのロケ地にもなった |
駅ビル「大森ララ」内の大森駅北口へ行く階段。左手前の案内板が、鎧懸松があったことを示している |
「八景坂鎧掛松」の全体は以下の通りです。
白丸で囲った部分が、このページのタイトル部の箇所です。白丸内上部の、駕籠が一挺
と後ろにもう一人が、旧東海道(海沿いの松並木の部分)方面からこちらに向かって来ています。少し行くと「鈴ヶ森の刑場」(松並木沿いの右端に描かれている白い屋根が刑場か、または、刑場近くに建てられた大経寺か)を通過するよりも、景色がよくて、有名な「鎧掛松」もあり、お茶も飲める(左下方に茶店が描かれている)、「八景坂」上を目指しているのでしょう。「八景坂」上の道も池上本門寺に至る「池上道」として江戸中心部へ繋がっていました。「旧東海道」は徳川家康以降に整備されましたが、それ以前は、この「池上道」(平間街道、鎌倉街道の一つ)が主要街道(「古代の東海道」)だった可能性が高いようです。
この地の「八景」が愛でられるようになったのは江戸後期からでしょうか。景山(社格斎。大野五蔵。隣の大井村の名主だった。1847年没)の句碑の裏に当地の八景を詠んだ句が刻まれています。天祖神社の階段の左手に半ば埋もれて立っています(Photo→)。
笠島夜雨 鮫洲晴嵐 大森暮雪 羽田帰帆
六郷夕照 大藺落雁 袖浦秋月 池上晩鐘
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歌川広重 |
「東海道五十三次」の絵師として名所絵の第一人者となった広重(初代)が、「名所江戸百景」を手がけ始めるのは、安政3年(1856)の2月。安政5年(1858年)9月(61歳 ※誕生日不明のため、60歳かも)に死去するまでの2年7カ月間描き続けられました。
前年(安政2年(1855年))に「安政大地震」(阪神淡路大震災に近い規模)があり、江戸とその周辺に大きな被害が出たため、「名所江戸百景」には、その復興への願いや果たされた復興を
寿
ぐメッセージが散りばめられています。
「八景坂鎧掛松」は「名所江戸百景」の比較的最初の頃の作品(安政3年5月に出版許可)です。黒船来航(1853年)の3年後です。浮世絵には宣伝効果を狙ったものも多く、「八景坂」のある新井宿が、名所として「八景」「鎧掛松」を売り出すために、広重(あるいは版元の魚屋栄吉(魚栄))に依頼したのかもしれません。
その後、「八景坂」という名が定着しました。明治17年に創設され東京郊外随一の遊園地になった「八景園」(現在の天祖神社あたり一帯)の影響も大きいことでしょう。田山花袋は「八景園」に上る坂を「八景坂」としています。
中村汀女
には「八景坂上」という句群があり、尾﨑士郎にも「八景坂」という一文があります。尾﨑は、現在の池上通りとジャーマン通りとを斜めに結び、山王小学校の脇を通って品川区との境に至る緩やかな坂(清浦奎吾が住んだことから、現在「清浦さんの坂」の標柱がある)を「八景坂」と呼んでいます。当時、そこらへんが「
字
八景坂」だったからでしょう。
時代や人によって、「八景坂」の場所は、これだけまちまちです。
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原信田 実
『 謎解き 広重「江戸百」(集英社新書)』 。広重の「名所江戸百景」に込められたメッセージを読み解く |
梶 よう子『広重ぶるう (新潮文庫)』。鳴かず飛ばずの浮世絵師・広重が、顔料「べろ藍」に出会い、名所絵の大家に |
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横関英一『江戸の坂 東京の坂(ちくま学芸文庫)』。坂名の由来を徹底研究。「坂道研究」の古典的名著 |
原 征男、瀧山幸伸、武田勝彦、池田 健『東京の「坂」と文学 〜文士が描いた「坂」探訪〜』(彩流社) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
■ 参考文献:
●『地名の研究』(柳田國男 古今書院 昭和11年発行)P.303-306 ●「ララと松 〜伝説の鎧懸松が、ここにあった。〜(パンフレット)」(発行:大森ララ) ●「山王小路飲食店街(聖地巡礼MAP)」(新潟日報→) ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.10-12、P.16-17 ●『謎解き 広重「江戸百」(集英社新書)』(原信田 実 平成19年初版発行 同年発行2刷)P.15-16、P.30、P.43-48、P.70、P.225 ●「街道と村の道」(櫻井邦夫) ※『大田区史(中巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.764 ●『入新井町誌』(編:角田長蔵 入新井町誌編纂部 昭和2年発行)P.25-27 ●『東京の近郊 〜一日二日の旅〜』(田山花袋 磯部甲陽堂 大正9年発行)P.248-249 ●『汀女句集』(中村破魔子 甲鳥書林 昭和19年発行)P.101-102、P.132 ●『看板大関』(尾﨑士郎 宝文館 昭和32年発行)P.169-172 ●地図「東京府荏原郡 大森町 入新井村」(東京逓信管理局 明治44年発行)
※当ページの最終修正年月日
2025.1.12
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