{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

雪の日のテロ(昭和11年2月26日、二・二六事件起きる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「二・二六事件80年 議会機能せず 独裁招く 〜筒井清忠・帝京大教授に聞く〜」※「東京新聞(朝刊)」(平成28年2月26日号)


昭和11年2月26日(1936年。 北 一輝(52歳)の「日本改造法案大綱」の影響を受けた陸軍皇道派の青年将校ら1,483名(以下、反乱軍)が、 「昭和維新断行・尊皇討奸そんのう・とうかん」をスローガンにテロを起こしました(「二・二六にいにいろく事件」)。

昭和天皇(34歳)に上奏できる立場にあった総理大臣・岡田啓介、侍従長・鈴木貫太郎、内大臣・斎藤 まこと の3名を殺害して昭和天皇を孤立させて(昭和天皇に助言するこれらの人たちを彼らは「君側くんそくかん 」と考えた。「奸」とは“悪いヤツ”の意)、宮城を占拠し、しかるのちに昭和天皇を担いで軍事政権を立ち上げようというのが彼らの目論見もくろみ“維新”というだけあって、明治維新と似た作戦)。実際に殺害されたのは、岡田総理と誤認された陸軍大佐・松尾伝蔵(63歳)、蔵相・高橋是清(81歳)、内大臣・斎藤 まこと (77歳)陸軍教育総監・渡辺錠太郎(61歳)、岡田総理を守ろうとして凶弾に倒れた巡査・清水与四郎(29歳)など5名の警察官(村上嘉茂左衛門46歳、土井清松30歳、皆川義孝31歳、清水与四郎27歳、小館喜代松32歳)の計9名。高橋蔵相が殺害されたのは、軍事予算を厳しく絞ったことへの恨みからといわれます。渡辺陸軍教育総監は皇道派と距離をおいたためとみられます。昭和天皇が父親のように慕っていた侍従長・鈴木貫太郎(68歳。妻のたかは昭和天皇の乳母だった)も弾丸を4発受け瀕死の重体となりました。

反乱軍は宮城に入ればなんとかなると考えたようです。宮城には皇道派の重鎮・侍従武官長の本庄 繁ほんじょう・しげる(59歳)がいたからです。反乱軍の大尉・山口一太郎いちたろう (35歳)は、本庄の娘の婿で、本庄が協力してくれるだろうことを仲間に楽観的に伝えていたようです。

ところが、中尉・中橋基明なかはし・もとあき (28歳。近衛歩兵第三連隊。近衛歩兵なので入城できると考えた)が入城しようとしたとき、宮城を守っていた少尉・ 大高政楽おおたか・まさがく が立ちはだかりました。二人は銃を抜いて向き合いましたが、結局は中橋が銃を収め、宮城を去ります。宮城占拠はなりませんでした。

反乱軍や侍従武官長の本庄は、昭和天皇も解ってくださると信じていましたが、昭和天皇は断固鎮圧の方針をかえませんでした。本庄は反乱軍の国を思う気持ちを認めてほしいと13回奏上しますが、昭和天皇の考えはゆらぎませんでした。本庄の日記に、昭和天皇の言葉が記されています。

朕(私)が 股肱ここう 〔股と肘。主君の手足になって働く家来〕の老臣を殺戮す。かくのごとき凶暴の将校らは、その精神においても何の じょ す〔ゆるす〕べきものありや

真綿にて朕が首を締むるにひとしき行為なり

陸軍が反乱軍の鎮圧に本腰を入れようとしないのを知ると、

朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん

とまでおっしゃりました。自決を覚悟した反乱軍のリーダーたちが、最後に勅使に思いの丈を述べ、軍人としての最後の光栄を与えてもらいたいと願い出たときも

自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごとき者どもに勅使などもってのほか

と怒りを露わにしたといいます。昭和天皇のこの断固とした姿勢により、反乱軍は鎮圧されたといっても過言でないでしょう。

反乱軍の大尉・野中四郎(32歳)と大尉・河野 寿 ひさし (28歳)が自決。思想的指導者とされた北 一輝と西田 みつぎ 、中橋中尉など17名に死刑判決がおります。

二・二六事件は失敗に終わりましたが、軍にモノ申せば何をされるか分からないといった「恐怖」が政界・財界・言論界に蔓延軍の暴走を阻むことがますます難しくなっていきます。この「恐怖」が、日中戦争、アジア太平洋戦争の開戦に影響し、また、その終戦工作を阻む大きな要因になったことでしょう。

報道規制があり、真相が国民にほとんど伝わらなかったこともあったでしょうが、同事件に言及する作家が極めて少なかったのは、やはりその「恐怖」が大きかったからでしょう。国民もおしなべて口を閉ざしました。

十七名の死刑報ぜる今朝の記事は
食堂にゐてもいふものもなし
         (南原 繁(東大法学部教授))

尾崎士郎

尾﨑士郎(38歳)は、「雪の日の印象の中には浪漫的な昂奮があった」「情熱が名状しがたき美しさを描くのであった」と、美意識の上で事件を肯定しました。尾﨑は短篇小説『 蒟蒻 こんにゃく 』では、同事件が単調な生活に一時の活気を生む様子を描いています。タイトルの“蒟蒻”には事件があっけなく収束したことへの一抹の寂しさが込められているのでしょう。言論弾圧やテロによって反軍的(平和主義的)な発言者はことごとく失脚していきましたし(昭和7年犬養首相暗殺。昭和10年天皇機関説を唱えた美濃部達吉右翼により銃撃される)、マスコミも軍に靡くようになっていたので、軍側に立った発言(反乱軍といえども軍の一部)であれば“安全”だったのでしょう。

三島由紀夫

戦後になりますが、三島由紀夫が小説『憂国』で、新婚者であることを理由に二・二六事件の決起から外された男の末路を耽美的に描きました。三島が自作の中で一押しした作品です。

また、戯曲『十日の菊』に、二・二六事件のさい、女中の機転によって命拾いした架空の大臣を登場させています。 16年の歳月が流れ、政治の表舞台から降りた彼は、「不格好なトゲだらけのサボテン」に囲まれて平穏な日々を送っています。が、あの日に “輝かしい死” を遂げることができなかったことを悔やんでいるようでもあります。やはり、事件の美的側面が強調し、美化しています。三島にはあと『英霊の聲』というのもあり、これらをまとめて三島の「二・二六事件三部作」Amazon→

尾﨑三島にとっては、その暴力行為が後々までの死屍累々の禍根になるとしても、そんなことはどうでもいいのでしょうか? 個人や所属集団がヒロイックな感情に酔うと、“他者の痛み” などは見えなくなるものでしょうか?

高峰秀子

高峰秀子(11歳)は、当時、当地(東京都大田区の大森駅近く)のアパートの6畳一間に母と二人で暮らしており、そこで二・二六事件の報に接します。後年、そのときのことを次のように書いています。

・・・「決して外出をしないで下さい。窓ぎわには夜具蒲団を積み重ね、その陰にいて下さい……」
事件の真相は皆目分からぬままに、それでもようやくあわてだした母と私は、たったひとつの窓のそばへありったけの布団を積み重ねた。・・・(高峰秀子の『わたしの渡世日記』より)

平塚柾緒『二・二六事件 (河出文庫) 』(平成18年刊) 保阪正康 『昭和天皇実録 その表と裏③ 二・二六事件・日中戦争の時代』(毎日新聞出版)
平塚 柾緒 まさお 『二・二六事件(河出文庫) 』 保阪正康『昭和天皇実録 その表と裏③ 二・二六事件・日中戦争の時代』(毎日新聞出版)
澤地久枝『妻たちの二・二六事件(中公文庫)』 「全貌 二・二六事件 〜最高機密文書で迫る〜(NHKスペシャル)」
澤地久枝『妻たちの二・二六事件(中公文庫)』 「全貌 二・二六事件 〜最高機密文書で迫る〜(NHKスペシャル)」

■ 馬込文学マラソン: 
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→

■ 参考文献:
●『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』(半藤一利 平成21年発行)P.145-178 ●「二・二六事件から80年 首相を守り殉職 29歳巡査」(酒井翔平、土門哲雄) ※「東京新聞」(平成28年2月25日号)掲載 ●『評伝 尾﨑士郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.200-204 ●『濁流 ~雑談=近衛文麿』(山本有三 毎日新聞社 昭和49年発行)P.122-123、P.138 ●『三島由紀夫研究年表』(安藤 武 西田書店 昭和63年発行)P.194-205 ●『わたしの渡世日記(上)(文春文庫)』(高峰秀子 平成10年初版発行 平成23年発行12刷)P.129-130

※当ページの最終修正年月日
2024.2.26

この頁の頭に戻る