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萩原朔太郎と妹のユキ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』 明治45年5月16日(1912年。 萩原朔太郎(25歳)が妹のユキ(幸子。17歳)に手紙を書いています。 ・・・知らない間にお別れして と、実の妹にあてたとは思えない熱烈さ。ユキはすでに2年前に結婚しています。上の手紙を夫が見たらどう思うでしょう? 30歳頃までの朔太郎は、複数の学校で入退学を繰り返し、落第したり、試験に落ちたり、と希望の学歴を積むことができませんでした。お金にならない詩を書いたり、マンドリンを弾いたりして日がな過ごしていました。 父・密蔵は東京大学医学部を主席で卒業し、朔太郎が生まれる1年前(明治18年。33歳)、前橋で医院を開業したエリートで、そんな父からのプレッシャーで朔太郎はかなり萎縮していたようです。でもユキは、よき理解者でした。朔太郎は原稿用紙50枚ほどの手紙でユキに思想的な悩みを打ち明けたこともありました。 朔太郎には、ワカ(若子。長女)、ユキ(幸子。次女 photo→)、みね(峰子。三女)、アイ(愛子。四女 photo→)という美人の誉れ高い4人の妹がいましたが、 ことに次女のユキは 「高崎三美人」 に数えられるほどでした。 朔太郎はそんな妹たちをよく連れ歩いたようで、大正14年、芥川龍之介、室生犀星、堀 辰雄らと集った軽井沢にも、妻の稲子ではなく、ユキ(次女)とアイ(四女)を伴っています。 朔太郎は、大正8年、上田稲子と結婚しますが、10年後の昭和4年に逃げられます。別離の原因は、「・・・とにかくおかしな女でした。子供が出来てもちつとも母性愛なんてものはないらしいんだ、下らん拳闘の選手や、ラツパズボンのモダンボーイを毎日引きずりこんで・・・」と、ひとえに稲子が悪いように朔太郎は書きますが、彼の「妹への執着(シスコン)」的傾向を思うと、稲子にも言い分があったのではないでしょうか? 朔太郎は4番目の妹のアイのことも相当可愛がったようです。アイは、昭和8年に妻を病いで失った佐藤惣之助に嫁ぎますが、その佐藤が昭和17年に病没すると、次は、三好達治に嫁いでいます。萩原葉子(朔太郎の娘)の小説 『天上の花』 の慶子は、アイがモデルです。 シスコンというとなにやら病的ですが、妹へ深い愛情を注いだ人は数限りないでしょう。身近な年下の者を庇おうとする気持ちは自然です。 この頁のタイトル「愛しき妹」を「いとしき妹」と読んだ方が多いでしょうが、「かなしき妹」と読む方もいたでしょうか。古来「かなし」という言葉には、「愛し」「悲し」「哀し」のニュアンスが渾然としているようです。「愛し」の根底には、 例えば年下の、まだ十分に力のない、か弱い、健気な存在を、「悲し」「哀し」む心情があるのでしょう。
宮沢賢治と2歳年下の妹・トシも精神的に結ばれていました。 賢治が盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に進学し、トシが日本女子大学校に進学して離れ離れになると、トシは賢治に週に一度は手紙を出したそうです。そのトシがあの世に逝ってしまおうとする。最後の日、トシは、2人が幼い頃から使い続けた茶碗に雨雪(あめゆじゆ。あめゆき。
・・・うすあかくいつそう
三島由紀夫(20歳)も敗戦直後の昭和20年10月、妹の美津子(17歳)を腸チフスで喪っています。思ったことをはっきりいう太陽のような美津子を三島は可愛がりました。妹の死の床でオロオロする三島に美津子は「お兄ちゃま!有難う」と言ったとか。三島の数々の妹文学(『家族合せ』『水音』『音楽』『熱帯樹』など)には美津子の面影が宿っているものもあるのでしょうか。 妹が登場する数々の文学。同母妹に恋して王位を捨てて駆け落ちする「 ドストエフスキーの『罪と罰』にも主人公ラスコーリニコフの妹(ドゥーニャ)が出てきます。彼女と彼女を巡る2人の男(ルージンとスヴィドリガイロフ)の登場により、小説が複雑化、批評性、象徴性に富んでいきます。 南こうせつの「妹」のように「友だちの妹」というケースもけっこうあるのでしょうか。井上 靖の『氷壁』もそうでした。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |