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萩原葉子『天上の花』を読む(醜い純粋) - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“純粋”は美しいか? というと、そうとも限らない。

『天上の花』 で萩原葉子は、自身の文学の導き手で恩人の三好達治について書いた。 副題に 「三好達治抄」 とある通りである。

そして、書名の “天上の花” が示すように、ここでは “純粋” な魂の持ち主として三好が描かれている。 しかし、この “純粋” とやらが、本を踏みつけたい衝動に駆られるほどにも、醜い。

若い頃、三好は、師匠である萩原朔太郎(著者・萩原葉子の父親)の妹の慶子に恋いこがれる。 しかし、その “純粋” な恋心は、「経済的な理由」 という 「世俗的」 な思惑から拒絶されるのだった。「こんな貧乏詩人に娘は遣れません!」 というやつだ。

それでも三好は、慶子のことを想い続ける。 15年後妻子と別れ、再び慶子に求婚。

事情はいろいろ変わっていた。 慶子は夫の佐藤惣之助を病で失っていたし、三好もかつての “貧乏詩人” ではない。 文壇も認める有名人だ。 その知名度・経済力・将来性といったやはり 「世俗的」 な理由で、今回は慶子も慶子の家族も三好の申し出を受けるのだった。

そして、三好と慶子の生活が始まる。

三好の “純粋” は、目に見える 「世俗的」 なものを軽視した。 三好の慶子に対する想いは熱かったが、慶子が迎えられた家は埃だらけで、最初から彼女を幻滅させる。 それに慶子にとって三好は、亡夫の佐藤のように粋なところもなければ、優しくもない。 三好がまくしたてる高尚な文化論は、慶子にとっては 「ださー」 なのだ。 慶子の幻滅は行動に表れ、三好の “純粋” は傷ついていく。

そして、いよいよ “純粋” の反撃だ。 三好はあんなに憧れていた慶子に、激しい暴力を加えるようになるのだ。

慶子の手記の形で次のように書かれている。

・・・言い終わらないうちに、私は三好に髪の毛を引っぱられて、二階から引きずり下ろされていた。 そして荷物のように足蹴にされたり、踏まれたりした。 後頭部の疵口と目から血が吹き出ても、まだ打ち続けられた。 気違いになったのだろうか。 私は三好にこれで殺されると、半ば意識を失いかけながら思った。 そして血まみれになった雪の夜道を、警察まで夢中で逃げ込んだ。 雪の上に真っ赤な血痕がぽた、ぽた落ちるのが夜目にも見えたところまで、記憶していた。・・・(『天上の花』 より)

「弱いもの」 や 「悲しむもの」 や 「苦しむもの」 に対して人一倍優しく、一途で “純粋” な三好のこの変貌は、どうしたことか? まったく唾を吐きたい気分になる。

“純粋” は純粋であるがゆえに、そうでないもの、世俗的なものには不寛容なのか? 

逆に言えば、不寛容だから “純粋”なのか? なんだか “純粋” が嫌になってくる。


『天上の花』 について

萩原葉子作。 昭和41年 「新潮」(3月号)に掲載。 同年、単行本化された。 新潮文学賞と田村俊子賞を受賞した。 芥川賞の候補にもなる。 潮文庫(昭和47年)、新潮文庫(昭和55年) 、講談社文芸文庫(平成8年)などからも出ている。

上で紹介したように、葉子の恩人の三好達治について書かれている。 彼女は、知り合いだからといって、恩人だからといって人物を美化することなく、知り得た限りの真実をこの小説に盛り込んだようだ。 三好が伴侶の女性に暴力を振るう箇所が凄まじい。

雑誌掲載されたのは、三好の死後2年経ってのこと。

■ 作品評
・ (三好達治が)自分からは言えなかったことを、自分に替って書いてくれた葉子さんに、天上の人として分別をもって、感謝しているのではあるまいか。 私はそう感じた。 葉子さんの作品には、もちろんその高さの愛があったからである。 (宇野千代

萩原葉子 『天上の花 ―三好達治抄』。三好が生きていたら恐らく卒倒する・・・*
萩原葉子 『天上の花 ―三好達治抄』。三好が生きていたら恐らく卒倒する・・・


萩原葉子について

父親は萩原朔太郎
大正9(1920)年9月4日、東京本郷で生まれる。 父は萩原朔太郎。昭和4年(9歳)、両親の離婚にともない、 前橋の祖父母の家に預けられた。 昭和6年(11歳)、東京での、父、祖母、叔母、妹との5人暮らしが始まる。 祖母は葉子のことを、出奔した義娘の淫乱な血が流れているといって嫌った。

精華高等女学校卒業後、文化学院に通いながら、英文タイピストとして働く。昭和19年(24歳)、勤務先の上司と結婚、昭和21年(26歳)長男の朔美を出産した。知的障害をもつ妹も施設から引き取る。明治学院大学(夜学)に通う夫の学費はミシンの内職で作る。 教師になるため、砧高等学校(定時制)、國學院大学文学部国文科(夜学)で学ぶが、実習で人前で話すことが苦手なことを痛感、中途で断念した。夫は不機嫌になると暴力をふり、また、葉子が大好きな小説の読書も堕落するといって禁じた。昭和29年(34歳)、離婚。

昭和32年(37歳)、父朔太郎の知り合いの文芸評論家山岸外史(53歳)の誘いで第二次「青い花」の創刊同人となり、父朔太郎のことを書き、作家デビューする。

母親と妹の世話をしつつ執筆とダンス
昭和34年(39歳)、 『父・萩原朔太郎』 で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。 昭和38年(43歳)にはかつて自らを捨てた母親も引き取る。自宅近くに借りたアパートで執筆する。 翌年、過労で倒れる。 回復後、フラメンコなどのダンスを初め、生き甲斐となる

幼い頃からの心の傷を書くことで乗り越える
昭和41年(46歳)には 『天上の花』 を、 昭和51年(56歳)には 『蕁麻(いらくさ)の家』 を出版する。 生い立ちから受けた心の傷を書くことで乗り越えていった。 昭和60年(65歳)、オブジェを作り始める。

平成17(2005)年7月1日、播種(はしゅ)性血管内凝固症候群により逝去。 満84歳( ) 。

『萩原葉子(作家の自伝)』
萩原葉子(作家の自伝)』


萩原葉子と馬込文学圏

父母とともに、東京(大井町、田端)、鎌倉の材木座を経て大正15年(6歳)、馬込文学圏入り(南馬込三-20)。 近くの御国幼稚園・馬込尋常小学校(在学1年半)に学ぶ。 昭和4年(9歳)、母親の出奔にともない、父親と父親の郷里の前橋へ帰る。 馬込文学圏にいたのは約3年間。

昭和32年頃(37歳頃)から文章を書くようになると、父朔太郎の友人の室生犀星三好達治らから励ましと指導を受けた。宇野千代からも自信を持つことの大切さを教わる。室生朝子や関口良雄とも親交があった。

作家別馬込文学圏地図 「萩原葉子」→


参考文献

・ 作家の自伝78 『萩原葉子』 
 (日本図書センター 平成10年発行) P.265-272
 ※購入サイト (Amazon)へ→

・ 『小綬鶏の家 親でもなく子でもなく』 
 (萩原葉子 萩原朔美 集英社 平成13年初版参照) P.19-22
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・ 『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』
 (東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.66-67
 ※東京都大田区立郷土博物館大森倶楽部、大森海苔のふるさと館、
  区政情報コーナーで購入できます(200円)

・ 『生涯楽しめる ダンス入門』
 (萩原葉子 文化出版局 昭和60年発行)P.69-71


参考サイト

とみきち読書日記/『花笑み・天上の花』 萩原葉子→



※当ページの最終修正年月日
2016.6.11

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