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昭和41年に発行された萩原葉子(45歳)の小説。恩人の三好達治について書かれている。 知り合いだからといって、恩人だからといって美化していない。三好が伴侶の女性に暴力を振るう箇所が凄まじい。三好は昭和39年に死去。雑誌掲載は、三好の死後2年経ってなされた。三好が生きていたら恐らく卒倒するのでは? 新潮文学賞と田村俊子賞を受賞。
■ 作品評
●(三好達治が)自分からは言えなかったことを、自分に替って書いてくれた葉子さんに、天上の人として分別をもって、感謝しているのではあるまいか。私はそう感じた。葉子さんの作品には、もちろんその高さの愛があったからである。(宇野千代)
父親は萩原朔太郎
大正9年9月4日(1920年)、萩原朔太郎(33歳)と上田稲子の子として、東京帝国大学(現・東京大学(東京都文京区本郷七丁目3-1 map→)構内の前田侯爵邸で生まれる。朔太郎の両親が住む家(群馬県前橋市
大正14年(4歳)、家族で上京し、品川区西大井、北区田端、神奈川県鎌倉市材木座をへて、大正15年(6歳)、当地(東京都大田区南馬込三丁目20-7 map→)に落ち着く。近くの御国幼稚園、馬込尋常小学校(現・大田区立馬込小学校(東京都大田区馬込一丁目34-1 map→)。在学1年半)に学ぶ。
昭和4年(8歳)、母の出奔にともない、父母が離婚。父、妹の
昭和6年(11歳)より東京での生活が始まる。父(朔太郎)、祖母、叔母(『天上の花』の慶子のモデルとなる朔太郎の妹の愛子)、妹との5人暮らし(祖父は前年(昭和5年)に死去)。昭和8年(12歳)より父(朔太郎)が設計した家に住む(東京都世田谷区代田一丁目6-5-3 map→)。
精華高等女学校(東京大空襲で焼失したという九段精華高等女学校だろうか?)卒業後、文化学院(大正10年、与謝野晶子、与謝野鉄幹らによって創設された「国の学校令によらない自由で独創的な学校」。戦中弾圧された。平成30年閉校 Wik→)に通いながら、英文タイピストとして働く。昭和19年(24歳)、勤務先の上司と結婚、昭和21年(26歳)長男の朔美を出産。知的障害をもつ妹も施設から引き取った。明治学院大学(夜学)に通う夫の学費はミシンの内職で作ったという。教師になるため、砧高等学校(定時制)、國學院大学文学部国文科(夜学)で学ぶが、実習で人前で話すことが苦手なことを痛感、進路を変えた。夫は不機嫌になると暴力をふり、小説を読むのも堕落するからと禁じられた。昭和29年(34歳)、離婚。
昭和32年(37歳)、父・朔太郎の知り合いの文芸評論家・山岸外史(53歳)の誘いで第二次「青い花」の創刊同人となり、父・朔太郎のことを書き、作家デビューする。室生犀星、三好達治、宇野千代からも励ましと指導を受けた。室生朝子や関口良雄とも親交。
母と妹の世話をしつつ執筆とダンス
昭和34年(39歳)、 『父・萩原朔太郎』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。昭和38年(43歳)にはかつて家族を捨て出奔した母も引き取る。自宅近くに借りたアパートで執筆。 翌年、過労で倒れた。回復後、フラメンコなどのダンスを始め、生き甲斐とする。
幼い頃からの心の傷を書くことで乗り越える
昭和41年(46歳)には『天上の花』を、 昭和51年(56歳)には『蕁麻(いらくさ)の家』を出版。幼少時から受けた心の傷を書くことで乗り越えていく。昭和60年(65歳)、オブジェを作り始める。
平成17年7月1日(2005年。84歳)、満播種(はしゅ)性血管内凝固症候群により逝去 ( ) 。
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| 『萩原葉子(作家の自伝)』(日本図書センター)。編纂:長野 隆。年譜あり | 萩原葉子『或る酒場』(毎日新聞) |
●『萩原葉子(作家の自伝78)』(日本図書センター 平成10年発行)P.265-272 ●『測量船(講談社文芸文庫)』(三好達治 平成8年発行)P.214-218(年譜。作成:安藤靖彦) ●『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.99、104-108(年譜。作成:久保忠夫) ●『小綬鶏の家 〜親でもなく子でもなく〜』(萩原葉子 萩原朔美 集英社 平成13年発行)P.19-22 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年)P.66-67 ●『生涯楽しめる ダンス入門』(萩原葉子 文化出版局 昭和60年発行)P.69-71
※当ページの最終修正年月日
2025.4.22