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萩原葉子『天上の花』を読む(醜い純粋) - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“純粋”は美しいか? というと、そうでもなかったりする。

萩原葉子は『天上の花』で、自身を文学へ導き、恩人でもあった三好達治について書いた。書名の“天上の花”が示すように、“純粋”な魂の持ち主として三好が描かれている。しかし、その“純粋”とやらが醜いことといったら、途中で本を踏みつけたい衝動に駆られるほどだった。

三好は詩の上での師匠・萩原朔太郎(著者・萩原葉子の父親)の妹の慶子(朔太郎の4人いる妹のうちの末っ子の愛子(アイ)がモデル)に恋いこがれる。しかし、その“純粋”な恋心は、「経済的な理由」という極めて“世俗的な理由”で拒絶されるのだった。「こんな貧乏詩人に娘は遣れません!」というやつだ。

それでも三好は、慶子のことを想い続ける。15年後妻子と別れ、再び慶子に求婚。

状況はいろいろ変化していた。

慶子は兄の朔太郎(55歳)、昭和17年5月11日、急性肺炎で失う。さらには、なんとその4日後(昭和17年5月15日)には夫の佐藤惣之助(51歳)が脳溢血で急逝。 慶子は短い間に兄と夫を失ったのだった。どんなにか心細かっただろう。

また、三好もかつての単なる“貧乏詩人”でなくなっていた。文壇も認める有名人だ。師事していた朔太郎とも文学の問題で対等に論争(「『氷島』論争」、「日本詩語韻律論争」)するといった頼もしさも見せていた。その知名度・将来性といったやはり極めて“世俗的な理由”で、今回は、慶子も慶子の家族も三好の申し出を受けるのだった。三好は43歳で、慶子は40歳。

三好の“純粋”は、目に見える“世俗的なもの”を軽視した。三好の慶子に対する想いは熱かったが、慶子が迎えられた家は埃だらけで、最初から彼女を幻滅させた。それに三好は、亡夫の佐藤のように粋なところもなければ、優しくもない。三好がまくしたてる高尚な文化論は、慶子にとっては「ださー」なのだ。慶子の幻滅は行動に表れ、三好の“純粋”は傷つく。

そして、いよいよ“純粋”の反撃だ。三好はあんなにも憧れていた慶子に、激しい暴力を加えるようになるのだった。

『天上の花』では手記の形で慶子の心中が語られる。

・・・言い終わらないうちに、私は三好に髪の毛を引っぱられて、二階から引きずり下ろされていた。そして荷物のように足蹴あしげにされたり、踏まれたりした。後頭部の疵口きずぐちと目から血が吹き出ても、まだ打ち続けられた。気違いになったのだろうか。私は三好にこれで殺されると、半ば意識を失いかけながら思った。そして血まみれになった雪の夜道を、警察まで夢中で逃げ込んだ。雪の上に真っ赤な血痕けっこんがぽた、ぽた落ちるのが夜目にも見えたところまで、記憶していた。・・・(萩原葉子『天上の花』より)

「弱いもの」や「悲しむもの」や「苦しむもの」に対して人一倍優しく(肺結核にかかった友人・梶井基次郎に対する三好の献身的な態度を思い出す)、一途で“純粋”な三好のこの変貌は、どうしたことか?  まったく唾を吐きたい気分になる。

“純粋”は純粋であるがゆえに、そうでないもの、世俗的なものには不寛容なのか? 逆に言えば、不寛容だから“純粋”なのか? なんだか“純粋”が嫌になってくる。


『天上の花』について

萩原葉子 『天上の花 ―三好達治抄』。三好が生きていたら恐らく卒倒する・・・

昭和41年に発行された萩原葉子(45歳)の小説。恩人の三好達治について書かれている。 知り合いだからといって、恩人だからといって美化していない。三好が伴侶の女性に暴力を振るう箇所が凄まじい。三好は昭和39年に死去。雑誌掲載は、三好の死後2年経ってなされた。三好が生きていたら恐らく卒倒するのでは? 新潮文学賞と田村俊子賞を受賞。

■ 作品評
●(三好達治が)自分からは言えなかったことを、自分に替って書いてくれた葉子さんに、天上の人として分別をもって、感謝しているのではあるまいか。私はそう感じた。葉子さんの作品には、もちろんその高さの愛があったからである。(宇野千代



萩原葉子について

父親は萩原朔太郎
大正9年9月4日(1920年)、萩原朔太郎(33歳)と上田稲子の子として、東京帝国大学(現・東京大学(東京都文京区本郷七丁目3-1 map→)構内の前田侯爵邸で生まれる。朔太郎の両親が住む家(群馬県前橋市 紅雲町こううんちょう 二丁目28 map→)で育つ。

大正14年(4歳)、家族で上京し、品川区西大井、北区田端、神奈川県鎌倉市材木座をへて、大正15年(6歳)、当地(東京都大田区南馬込三丁目20-7 map→)に落ち着く。近くの御国幼稚園、馬込尋常小学校(現・大田区立馬込小学校(東京都大田区馬込一丁目34-1 map→)。在学1年半)に学ぶ。

昭和4年(8歳)、母の出奔にともない、父母が離婚。父、妹の 明子 あきらこ と3人で前橋の祖父母の家に戻る。当地(東京都大田区)にいたのは約3年間。前橋では祖母ケイに育てられる。祖母から「出奔した義娘と同じ淫乱な血が流れている」といった意味のことを言われる。「血」という言葉を嫌う。

昭和6年(11歳)より東京での生活が始まる。父(朔太郎)、祖母、叔母(『天上の花』の慶子のモデルとなる朔太郎の妹の愛子)、妹との5人暮らし(祖父は前年(昭和5年)に死去)。昭和8年(12歳)より父(朔太郎)が設計した家に住む(東京都世田谷区代田一丁目6-5-3 map→)。

精華高等女学校(東京大空襲で焼失したという九段精華高等女学校だろうか?)卒業後、文化学院(大正10年、与謝野晶子与謝野鉄幹らによって創設された「国の学校令によらない自由で独創的な学校」。戦中弾圧された。平成30年閉校 Wik→)に通いながら、英文タイピストとして働く。昭和19年(24歳)、勤務先の上司と結婚、昭和21年(26歳)長男の朔美を出産。知的障害をもつ妹も施設から引き取った。明治学院大学(夜学)に通う夫の学費はミシンの内職で作ったという。教師になるため、砧高等学校(定時制)、國學院大学文学部国文科(夜学)で学ぶが、実習で人前で話すことが苦手なことを痛感、進路を変えた。夫は不機嫌になると暴力をふり、小説を読むのも堕落するからと禁じられた。昭和29年(34歳)、離婚。

昭和32年(37歳)、父・朔太郎の知り合いの文芸評論家・山岸外史(53歳)の誘いで第二次「青い花」の創刊同人となり、父・朔太郎のことを書き、作家デビューする室生犀星三好達治宇野千代からも励ましと指導を受けた。室生朝子や関口良雄とも親交。

YouTube/前橋文学館公式/リーディングシアターvol.13 「わたしはまだ踊らない」(書き始めた頃の萩原葉子と彼女を巡る人たち。演出:加藤真史、音楽:荒木聡志、出演:萩原玲子・林 健樹・雨宮友美・萩原朔美、ナレーター:高橋幸良→

母と妹の世話をしつつ執筆とダンス
昭和34年(39歳)、 『父・萩原朔太郎』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。昭和38年(43歳)にはかつて家族を捨て出奔した母も引き取る。自宅近くに借りたアパートで執筆。 翌年、過労で倒れた。回復後、フラメンコなどのダンスを始め、生き甲斐とする

幼い頃からの心の傷を書くことで乗り越える
昭和41年(46歳)には『天上の花』を、 昭和51年(56歳)には『蕁麻(いらくさ)の家』を出版。幼少時から受けた心の傷を書くことで乗り越えていく。昭和60年(65歳)、オブジェを作り始める。

平成17年7月1日(2005年。84歳)、満播種(はしゅ)性血管内凝固症候群により逝去 ( ) 。

作家別馬込文学圏地図 「萩原葉子」→

『萩原葉子(作家の自伝)』(日本図書センター)。編纂:長野 隆。年譜あり 萩原葉子『或る酒場』(毎日新聞)
萩原葉子(作家の自伝)』(日本図書センター)。編纂:長野 隆。年譜あり 萩原葉子『或る酒場』(毎日新聞)

参考文献

●『萩原葉子(作家の自伝78)』(日本図書センター 平成10年発行)P.265-272 ●『測量船(講談社文芸文庫)』(三好達治 平成8年発行)P.214-218(年譜。作成:安藤靖彦) ●『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.99、104-108(年譜。作成:久保忠夫) ●『小綬鶏の家 〜親でもなく子でもなく〜』萩原葉子 萩原朔美 集英社 平成13年発行)P.19-22 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年)P.66-67 ●『生涯楽しめる ダンス入門』(萩原葉子 文化出版局 昭和60年発行)P.69-71

※当ページの最終修正年月日
2020.12.24

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