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1849年(黒船来航(1853年)の4年前)4月23日(ドストエフスキー(27歳。勝 海舟より2歳年上)が官憲に逮捕され、その後、死刑判決を受けます。社会主義のサークルに所属していた、ただそれだけのために。 銃殺刑執行直前になって、皇帝ニコライ1世からの特赦で減刑され、シベリア流刑となり、1854年(33歳)までの5年ほど服役。「死」をほのめかして脅かし、特赦でもって恩を着せたのでしょう。その時の異常体験が、彼の後の作品『死の家の記録』(Amazon→)、『罪と罰』(Amazon→)、『白痴』(Amazon→)などに投影されます。 出獄後4年して(1858年。37歳)、ペテルブルクに帰還。すでに『貧しき人々』(Amazon→)、『白夜』(Amazon→)、『二重人格』(Amazon→)などは書いてましたが、その後、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』(Amazon→)、『カラマーゾフの兄弟』(Amazon→)といった代表作も次々と書きます。ペテルブルクは人工都市で、成人の15人に1人は警察の厄介になるといった犯罪都市でもありました。そこでの生活、それと、賭博への耽溺、持病のてんかんなども、作品に陰影と複雑さを添えたことでしょう。驚きですが、かの名作『罪と罰』は賭博ですって作った莫大な借金の返済のために書かれたようなのです。タイトなスケジュールをこなすために口述筆記もしています。この作品で高く再評価されたし、口述筆記で速記を務めた女性とは後に結婚することになるので、崖っぷちで、心機一転のチャンスを掴んだとも言えます。先に紹介した死刑判決とシベリアでの受刑といい、凄まじい人生です。あと、父親が殺害されています(入手した村の農奴の恨みをかった。ドストエフスキーが18歳の時)。この事件はのちに、『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しのモチーフとなります。 ドストエフスキーは時代の矛盾に引き裂かれていく人物を描きました。彼は農奴制的旧秩序から資本主義に移行する過渡期を生きたのです。日本も明治以降、資本主義に突っ走り、現代においてはその資本主義も行き詰まって(資本主義の帰結としての戦争や大規模な自然破壊や搾取。新自由主義も然り)、今も、時代の矛盾の中にあります。ドストエフスキーがなお今日的なのはそのためでしょう。 川端康成は一高で学ぶために上京、従兄弟のいる浅草に住み始めた頃、ドストエフスキーに傾倒しました。北条民雄にもドストエフスキーを勧めています。 三島由紀夫だって若い頃からちゃんと読んでいます。24歳で脱稿した『仮面の告白』のエピグラフ(巻頭に置かれる引用文)は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からの一文。「悪の中にも美が存在」し「美の中にも悪が存在」するといったことをいっている箇所で、ドストエフスキーの描く人間の複雑性・多面性に三島が注目していたのが分かります。混沌とした、複雑な、矛盾をはらむ個々の人間の内面を描くことをドストエフスキーは「魂のリアリズム」と呼び、追求しました。彼は後に「実存主義(本質より個別的な実存を優先して考える考え方)の祖」と呼ばれます。 萩原朔太郎も大正5年頃(29-30歳頃)、「深刻な心理学や、犯罪学や、ポオなどに共通する病的変態精神」が描出されている『カラマーゾフの兄弟』を耽読しました。「室生犀星や山村暮鳥や「白樺派」の人たちは、ドストエフスキーの人道的な面に感心しているようだけど、自分は違う」と朔太郎は書いています。その頃(大正5年頃)、朔太郎は大きな文学的インスピレーションを得ています(彼はその体験を「神を見る」と名づけた)。ドストエフスキーを読んで、自身の「病的変態精神」を受け入れることができたのかもしれません。それを忌避するのではなく、受け入れて表出し、文学として昇華させる手法を朔太郎は手にしたのでしょう。「神を見た」翌年の大正6年、朔太郎(30歳)は第一詩集『月に吠える』(Amazon→)を発行、詩人としてブレイクします。 最初期のドストエフスキーを高く評価した批評家のベリンスキーは、のちに、ドストエフスキーの「心理主義への病的な傾斜」(朔太郎が「病的変態精神」と名づけたようなことか)をマイナス評価するようになりました。立原道造がドストエフスキーを嫌ったのも、そういった点でしょう。立原とてドストエフスキーが 犀星も朔太郎からドストエフスキーを勧められハマりにハマっています。でも、朔太郎のハマり方とは異なりました。『罪と罰』に登場するソーニャもそうですが、ドストエフスキーの小説には「異常に魅力的な少女」が登場するのです。惨憺たる物語の中で、彼女らが“天使”の役割を果たします。犀星が熱愛したのは『虐げられた人びと』(Amazon→)に登場するネルリ。不幸な生い立ちの中で気高く生きる少女です。ネルリは太宰 治の不思議な小説(?)『葉』(青空文庫→)にも出てきます。 ドストエフスキーは日本にどうもたらされたのでしょう。
明治25年、内田魯庵(24歳)が、二葉亭四迷(28歳)の手を借りて『罪と罰』の前半部を訳出しました。『罪と罰』の初版発行(慶応元年(1866年))から26年たっていました。ドストエフスキーの死(明治14年。59歳)の11年後。 翌明治26年、北村透谷(25歳)が内田訳『罪と罰』を読み、高く評価しました。作中の犯罪(小狡い金貸しの老婆とその妹の殺害)は、知的エリート(非凡人)の差別意識からのもので、時代の矛盾が惹起したものと捉えました。その頃、樋口一葉も内田訳の『罪と罰』を繰り返し読んだようです。その後、一葉は「奇跡の14ヶ月」(彼女の主な作品がこの14ヶ月間に書かれた)に突入、やはり、ドストエフスキー体験が大きかったのではないでしょうか。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |