{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

その最初の夜に(昭和9年10月16日、北條民雄、川端康成に感謝の手紙を書く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いのち」としての最初の夜が明けようとしていた。一年前から病院にいる佐柄木が尾田に言う。「尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めて下さい。癩者らいしゃ〔ハンセン病患者〕に成り切って、更に進む道を発見して下さい。僕は書けなくなるまで努力します。」(北條民雄『いのちの初夜』より)

北條民雄

昭和9年10月16日(1934年。 ハンセン病をわずらう小説家志望の青年・北條民雄ほうじょう・たみお (21歳)が、川端康成(36歳)に手紙を書いています。8月11日に初めて川端にあてて手紙を書いたところ、2ヶ月後の10月12日に川端から返事があって感激、この2便目には感謝があふれています。

御返書ごへんしょ、ほんとうにありがとう御座ございました。もうきっとお手紙はいただけないものと、半ば断念いたしてりました。それはの上もなく寂しいものでした。けれど、今日から、又以前のように病気を忘れて、文学にだけ生きて行こうとう気持になりました。・・・

北條がハンセン病と診断されたのは1年半ほど前の昭和8年2月、19歳のときでした。翌昭和9年5月18日(19歳)には全生ぜんしょう 病院(現・「(国立療養所)多摩 全生園 ぜんしょうえん 」(東京都東村山市青葉町四丁目1-1 map→。隣接して「国立ハンセン病資料館」がある site→)に入院。その頃、当地(東京市蒲田区町屋町。現・東京都大田区の西六郷一、二丁目か仲六郷の二、三丁目あたり)に住んでいたので、当地から全生病院に向ったんだと思います。死を見詰める日々でしたが、文学に生きる道を見出していました。

北條は手紙で、病院での生活を、

・・・一般社会の常識語では決して説明し切れない、不安と悲しみ、恐怖と焦燥が充ちて・・・

と書きますが、続けて、

・・・けれどこうした中にも、ほんとうに美しい恋愛もれば、また何ものにもまさ った夫婦愛の世界もあります。実際この中の恋人同志は、荒野の中に咲いた一輪の花のように、うるわしく、そして侘しく、だが触るれば火のやうに強いものです。・・・

川端からの手紙に励まされ、北條は、その「常識語では決して説明し切れない」ものや、その「荒野の中に咲いた一輪」を表現していく決意を固めたようです。

・・・私は静かに眺め、聞き、思って、私自身の役割を果して行きたいと思っています。役割とは勿論もちろん 、表現すること。血みどろになっても精進すること、ただそれだけです。どうかよろしく御指導下さい。・・・(以上、昭和10年10月16日付け、川端あて北條の書簡)

川端康成

川端からの最初の手紙は、書いた作品は読みますよといった程度のあっさりしたものでしたが、手紙を交わすうちに、北條の熱意に触発されてか、そして、何よりも北條の作品を読むうちに、川端の手紙にも熱がこもってきます。およそ1年後の昭和10年12月10日、川端(36歳)が出した7通目の手紙では、

些細ささいのことが貴兄きけいを力づけ、こんな嬉しい思いをしたことはありません。貴兄の手紙は立派です。そうあろうと推察し、文壇小説はよむな、文藝雑誌は見るなとあらかじめ申上げたのです。今度の小説は改造か中央公論のようなものに、必ず出して差し上げましょう。しかし、悪ければ返しますよ。原稿の注文は一切小生という番頭を通してのことにしなさい。でないとジャアナリズムは君を滅ぼす。文学者になど会いたいと思ってはいけません。孤独に心を高くしていることです。原稿紙ヤへ見本送る催促出しました。横光いわク、(間木まき 老人を見て)おれ達と苦労がちがう、ドストエフスキイの死の家以上だ。肺療院の生活など甘いものだと。これはしかし一時の感動のコ張ですよ。林房雄はマキ老人文学界革新後に再録しろと云ってます。

「横光」は横光利一で、「間木老人」(マキ老人)は北條川端に最初に送った小説のタイトルで、「死の家」はドストエフスキーの小説『死の家の記録』のことでしょう。

「ハンセン病の作家」という“レッテルだけの作家”にならないよう、川端は親身になって助言しています。マスコミや文壇との距離の取り方や読書の在り方など、真の表現者として生きていく方法も指南。川端自身、昭和3~4年、狂騒の“馬込文士村”に身をおいて、作家間交流が文学にかならずしもプラスにならないことが身に染みていたことでしょう。「孤独に心を高くしていること」と戒めています。

ちやほやするのでなく、悪ければ返すとも言っています。横光が感動しているがそんなものは一時のもの、と手厳しい。有名作家(横光)に褒められたくらいで有頂天になるなということでしょう。

読書は、文壇小説や文芸雑誌は読むなと注意、別の手紙でドストエフスキートルストイ、ゲーテを勧めています。

北條の才能を守るため、「改造」とか「中央公論」といった有力誌への売り込みはいっさい自分がやるといい、川端は自分が「番頭」になるとまで言います。

------------------------------------------------------

二人の書簡は、北條が胃腸病を併発して重病室に入る昭和12年9月25日(23歳)までの3年間ほどで、計90通交わされました。

重病室に入った2ヶ月後の昭和12年12月5日、結核を併発して、北條は23歳で他界します。短い生涯でしたが、全生園に入った1日目のことを書いた『いのちの初夜』(第2回文學界賞受賞。『定本 北條民雄全集(上巻)』に収録 Amazon→ 青空文庫→)など、幾編かの珠玉の作品を残しました。

川端康成といえばノーベル賞受賞のことばかり言われますが、あれはあくまでご褒美をもらいましたという話に過ぎません。北條民雄を育てた行為こそが川端康成の偉大さです。何でも金勘定する輩には到底理解の及ばないことでしょう。しかも、川端に「育ててやった」という感じがありません。対等に付き合い、北條からもインスパイヤーされています。

北條は昭和12年に亡くなりますが、以後、ハンセン病の作家たちは、北條を目標にし、そして、ある意味、北條を乗り越えていきます。

『定本 北條民雄全集(下巻)(創元ライブラリ)』。川端康成と交わした90通の全書簡も収録 『いのちの歌 〜東條耿一(こういち)作品集〜』(新教出版社)。北條民雄の『いのちの初夜』に出てくる先輩患者・左柄木のモデルとされる東條耿一。北條に決定的な影響を与えた
『定本 北條民雄全集(下巻)(創元ライブラリ)』。川端康成と交わした90通の全書簡も収録 東條 耿一 こういち 『いのちの歌 〜東條耿一作品集〜』(新教出版社)。東條耿一は北條民雄の『いのちの初夜』の佐柄木のモデル。北條の最後を看取ったのも東條だった
「あん 」。監督:河瀨直美。出演:樹木希林、永瀬正敏、内田 伽羅 ( きゃら ) ほか。手足の不自由な老婆・徳江が作るあんこはなぜにあんなにも美味しいのか? ●原作はドリアン助川の『あん』(Amazon→) 「あん 」。監督:河瀨直美。出演:樹木希林、永瀬正敏、内田 伽羅 きゃら ほか。手足の不自由な老婆・徳江が作るあんこはなぜにあんなにも美味しいのか? ●原作はドリアン助川の『あん』Amazon→

■ 馬込文学マラソン:
川端康成の『雪国』を読む→

■ 参考文献:
●『川端康成(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.25-26 ●『定本 北條民雄全集(上)』(東京創元社 平成8年発行)P.460-470 ※年譜(作成:光岡良二) ●『定本 北條民雄全集(下)』(東京創元社 平成8年発行)P.347-457

■ 参考サイト:
WIKISOURCE/作者:東條耿一(令和2年7月15日更新版)→

※当ページの最終修正年月日
2023.10.16

この頁の頭に戻る