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「いのち」としての最初の夜が明けようとしていた。一年前から病院にいる佐柄木が尾田に言う。「尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はある 昭和9年10月16日(1934年。
ハンセン病をわずらう小説家志望の青年・ 北條がハンセン病と診断されたのは1年半ほど前の昭和8年2月、19歳のときでした。翌昭和9年5月18日(19歳)には 北條は手紙で、病院での生活を、 ・・・一般社会の常識語では決して説明し切れない、不安と悲しみ、恐怖と焦燥が充ちて・・・ と書きますが、続けて、 ・・・けれどこうした中にも、ほんとうに美しい恋愛も 川端からの手紙に励まされ、北條は、その「常識語では決して説明し切れない」ものや、その「荒野の中に咲いた一輪」を表現していく決意を固めたようです。 ・・・私は静かに眺め、聞き、思って、私自身の役割を果して行きたいと思っています。役割とは 川端からの最初の手紙は、書いた作品は読みますよといった程度のあっさりしたものでしたが、手紙を交わすうちに、北條の熱意に触発されてか、そして、何よりも北條の作品を読むうちに、川端の手紙にも熱がこもってきます。およそ1年後の昭和10年12月10日、川端(36歳)が出した7通目の手紙では、 「横光」は横光利一で、「間木老人」(マキ老人)は北條が川端に最初に送った小説のタイトルで、「死の家」はドストエフスキーの小説『死の家の記録』のことでしょう。 「ハンセン病の作家」という“レッテルだけの作家”にならないよう、川端は親身になって助言しています。マスコミや文壇との距離の取り方や読書の在り方など、真の表現者として生きていく方法も指南。川端自身、昭和3~4年、狂騒の“馬込文士村”に身をおいて、作家間交流が文学にかならずしもプラスにならないことが身に染みていたことでしょう。「孤独に心を高くしていること」と戒めています。 ちやほやするのでなく、悪ければ返すとも言っています。横光が感動しているがそんなものは一時のもの、と手厳しい。有名作家(横光)に褒められたくらいで有頂天になるなということでしょう。 読書は、文壇小説や文芸雑誌は読むなと注意、別の手紙でドストエフスキー、トルストイ、ゲーテを勧めています。 北條の才能を守るため、「改造」とか「中央公論」といった有力誌への売り込みはいっさい自分がやるといい、川端は自分が「番頭」になるとまで言います。 ------------------------------------------------------ 二人の書簡は、北條が胃腸病を併発して重病室に入る昭和12年9月25日(23歳)までの3年間ほどで、計90通交わされました。 重病室に入った2ヶ月後の昭和12年12月5日、結核を併発して、北條は23歳で他界します。短い生涯でしたが、全生園に入った1日目のことを書いた『いのちの初夜』(第2回文學界賞受賞。『定本 北條民雄全集(上巻)』に収録 Amazon→ 青空文庫→)など、幾編かの珠玉の作品を残しました。 川端康成といえばノーベル賞受賞ですが、あれはご褒美をもらいましたというだけの話。北條民雄を育てた行為こそが川端康成の偉大さでしょう(何でも金(成果)勘定する人には到底理解の及ばないことでしょうが)。しかも、川端に「育ててやった」感がありません。北條と対等に付き合い、北條からもインスパイヤーされています。 北條は昭和12年に亡くなりますが、以後、ハンセン病の作家たちは、北條を目標にし、そして、あるいは、北條を乗り越えていったようでもあります。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日 |