明治31年9月10日(1898年。
の正午ごろ、
川上音二郎(34歳)と妻の川上貞奴(27歳)、それと長女(姪?)のしげ、お手伝いさん(音二郎の妾との憶測もある)の4人を乗せた小舟(長さが4M弱)が、東京築地より出帆したそうです。
音二郎いわく、目的は、太平洋を横切って米国に渡ること。「海外渡航免状」も所持していたそうです。
3日後(9月13日)に横須賀の軍港に打ち寄せられて、軍の取り調べを受け、船に乗っているのが著名な川上夫妻であることが判明、翌日(9月14日)からの新聞を賑わせます。太平洋を渡るにしては極めて貧弱な船であり、食料も米1俵とわずかな醤油と乾肉
しか所持しておらず、「毎日新聞」では「正気の沙汰とも思はれぬ」「借金逃れに仕組みたる狂言か」「虚名を売らんが為に企みたる例の滑手段なるべし」と報じました。憶測が激しく現在の新聞ではありえない表現ですが(他の新聞記事も同様のトーン)、記者の気持ちも分からなくないですが、芸能者(正業とみられていない仕事に従事している人)に対する差別意識が感じられます。
その後どうなったかというと、軍港部長と警察署長が思いとどまらせようと説得しますが、音二郎は「これしきの危険何かあらん。万一まかり間違えば魚の餌食となるのみ。畳の上も水の底も死ぬ味に違いはない」と啖呵を切って、首を縦に振りません。警察は親戚を呼び出して説得させますが、それでもダメ。貞奴ら女性3人は海に怯えていたので陸に残し、築地を出て10日目の9月20日、音二郎は水夫を一人雇って再び船を出しました。三浦半島の観音崎を越すのさえ困難なことで、横須賀の軍港内で「越す」「越せない」で賭けをする者までいたとか。それが、なんとまあ、翌日(9月21日)には、伊豆の下田に漂着(音二郎は「碇泊」と主張。なぜか横須賀で陸に残したはずの妻・貞奴も乗っていた?)、その後も2人は(水夫を含めると3人)、清水、焼津、御前崎、鳥羽、熊野の大泊を経て、年を越して明治32年1月6日、神戸港に到着。2人の行動を各新聞が面白おかしく逐一報道したので、この珍道中は日本中に知れ渡り、2人は行き先々が歓迎されました。幟
を立てって演説会なども催し、話題を振りまきました。「米国行き」がいつの間にか「神戸行き」に変わってますが、“目的”は達せられたのでしょう。
勢いに乗った2人は、神戸、京都で興業を再開、どれも成功させます。その間、米国で「日本喫茶園」(お茶を飲みながら日本の踊りや軽業、太神楽
、手品などを楽しむことができる施設)を作って成功していた
櫛引弓人
に会い、誘われて米国にわたります。こういう形で「米国行き」が叶うのですね。ここからが「世界の川上夫妻」です。
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「一度の転覆もなくここまで達せしは実に我ら夫婦は幸運の者と自分ながら感じ入り・・・」(田並港にて川上音二郎) |
音二郎も貞奴は、なぜに、こんな“大冒険”をすることになったのでしょう?
実は、当時、2人は、当地(「カドヤ16ビル」(東京都大田区山王三丁目5-6 Map→)が建っているあたり)に住んでいました。それには理由があって、衆議院議員選挙に当地から立候補するために、居住してその資格を得るため、「小舟漫遊」の前年(明治30年)に家を建てたのです。
ところが、翌明治31年の2度の選挙に破れ(第5回と第6回の総選挙。当地の名政治家・高木正年とも争った)、選挙に金を使い果たし、2人が明治29年に設立した「川上座」( (「加藤文明社印刷所」(東京都千代田区三崎町2-15-6 Map→)あたりにあった ※案内板あり)も人手にわたり、借金取りから逃げるためと、演劇活動を再開するにあたっての話題作りのために行ったようです。「行き詰っての破れかぶれの半ば自殺行為」との見方もあります。
間違いなく「小舟漫遊」は無謀でしたが、それをきっかけに常人には及びもつかないキャリアを積んでいくあたりに2人の破天荒な魅力があります。
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川上音二郎(右)と川上貞奴(左) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『明治・大正を生きた15人の女たち』(新人物往来社) |
川上音二郎は幕末の文久4年(1864年)生まれで、夏目漱石の3歳年上です。生まれは九州の博多。青年時代、大阪で、「オッペケペ節」を歌って自由と民権を訴え、大ブレイク。しかし、それがために、何度も投獄されています。明治24年(27歳頃)には書生芝居を組織して東京でも成功。シェークスピア劇などを企画・上演し、新派劇(旧劇(歌舞伎)に対する)の基礎を築きました。
川上貞奴の生涯も波瀾に満ちたものでした。明治5年(1872年。音二郎より8歳年下)東京日本橋の大きな質屋に生まれましたが、家業倒産のため、7歳の時より花柳界に身を置きます。奴
と名乗り、名妓として伊藤博文らからも
贔屓
にされました。明治24年(貞奴19歳)、音二郎の中村座の公演で2人は出会い、結婚、音二郎を経済的に支えます。そして、上記の「小舟漫遊」。その後、米国サンフランシスコで初めて舞台に立ち(道成寺を踊った。明治32年。27歳頃。Photo(海外公演時のポスター)→)、続くニューヨーク、ロンドン、パリでの公演でも話題になり、世界的な有名人になりました。ジッドが魅せられ、ピカソが素描(Photo→)を残しています。日本でも、明治36年(31歳頃)から舞台に立ち、「オセロ」などを演じ、スターへ。「近代女優の第一号」と評されています。
2人は、明治41年、帝国女優養成所を設立、後進を育て、帝劇の礎を築くとともに、明治43年には日本で最初の洋風劇場「帝国座」を大阪に設立。ところが翌年の明治44年に音二郎(47歳)が死んでしまいます。その後も貞奴は舞台に立ちましたが、大正6年10月「アイーダ」を演じて引退(貞奴46歳)。
貞奴は音二郎の功績を顕彰するために「天王寺」(東京谷中)に音二郎の銅像を立てましたが、「金属類回収令」(昭和16年〜)が出たため、貞奴は自費で銅像部分を撤去、政府に献じています。今は、台座しか残っていません。
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岩井眞實『伝統演劇の破壊者 川上音二郎』(海鳥社) |
永嶺重敏『オッペケペー節と明治 (文春新書)』 |
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長谷川時雨『近代美人伝(新編)(上)(岩波文庫)』。編:杉本苑子。最初に登場するのがマダム貞奴。貞奴に実際に会っている長谷川は、貞奴を尊敬しつつも赤裸々に書いている。貞奴を通しての長谷川の人生観が光る |
「春の波涛(第壱集、第1〜26回)(NHK大河ドラマ)」。川上夫妻の破天荒な人生。音二郎を中村雅俊、貞奴を松坂慶子が演じる。原作は杉本苑子の『冥府回廊』『マダム貞奴』だが、山口玲子の『女優貞奴』に近い |
■ 参考文献:
●『川上音二郎・貞奴 〜新聞にみる人物像〜』(編著:白川宣力 雄松堂
出版 60年発行)P.281-296 ●「川上音二郎」(藤木宏幸)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)P.269 ●『川上音二郎と貞奴 〜明治の演劇はじまる〜』(井上理恵 社会評論社 平成27年発行)P.275-283 ●『近代美人伝(新編)(岩波文庫)』(長谷川時雨 昭和60年発行)P.49-71 ●「川上貞奴」(松本伸子)、「川上貞奴」(倉田喜弘)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)、「世界大百科事典(改訂新版)」(平凡社)、「朝日日本歴史人物辞典」(朝日新聞出版)に収録(コトバンク→) ●『NHK犯歴簿』(山口玲子 草の根出版 平成14年発行)P.5-34、P.107
※当ページの最終修正年月日
2024.9.3
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