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江戸の終末期、近畿、四国、東海地方で、人々は「ええじゃないか」と叫びながら、仮装し、踊り狂った ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/ええじゃないか(平成31年2月25日更新版)→ 原典:「慶應四豊年踊之圖」(河鍋暁斎 ※「絵暦張込帳」より 国立国会図書館デジタルコレクション/絵暦貼込帳/65コマ目→)
昭和11年2月29日(1936年。
中野重治(34歳)が『 中野は、実態がまだ見えない「二・二六事件」には直接は触れず、この事件が象徴するファシズムの台頭と、それを許している文学的状況を批判しました。 中野が槍玉にあげたのは、「進歩的自由主義作家」と目されていた、前年(昭和10年)「文学界」の編集責任者になった小林秀雄(33歳)と、新感覚派の騎手・横光利一(37歳)。中野は彼ら2人の「反論理的」な姿勢を厳しく批判しました。 小林秀雄は、“日本近代批評の創始者・確立者”として今も言及されることが多い文芸評論家です。どういった評論かといえば、一言でいうと、“文学的な評論”。自分が美しいと確信したものを、かっこよく(芸術的に?)表現したもの。理詰めではなく、感性に訴えて感動させてしまう文章のようです。例えば、 ・・・嫌いと言うのは易しいが、好きと言い出すと、まことに混み入った世界に這入るものである・・・(小林秀雄「徳利と杯」より) ・・・解釈を拒絶して動じないものだけが美しい・・・(小林秀雄「無常といふ事」より) ・・・かなしさは疾走する。涙は追いつけない・・・(小林秀雄「モオツァルト」より) ・・・美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない・・・(小林秀雄「当麻」より) といったもので、わけが分からないだけに?(論理的でないだけに?)、含みもあって、うっとりしてしまいそうな詩的な言葉たちです。硬直しがちな「論理的」な文学を解き放つ評論、評論自体が一つの“文学”にまで高められていると言ってもいいかもしれません。 しかし、小林が「論理的」なものの攻撃をはじめると以下のようになってしまいます。 ・・・一体論文といふものが、論理的に正しいか正しくないかといふ事は、それほどの大事ではない、その議論が人を動かすか動かさないかが、常に遥かに困難な重要な問題なのだ・・・(小林秀雄「アシルと亀の子」(昭和5年)より) ・・・彼の提出するものは、何んでも、悪魔であれ天使であれ、僕等は信ぜざるを得ぬ。そんな事は御免だと言つても駄目である。・・・(小林秀雄「モオツァルト」より) 坂口安吾が巧いことを言っています、小林は「教祖の文学」なのだと。小林の言葉は上品ですが、言っていることはつまり「つべこべ言うな」であり、「人を動かすもの(権力やブーム)に従え」であり、「信ぜよ」なのでしょう。 満州事変の頃からファシズムの台頭が顕著になりますが、それと呼応するかのようにして、こういった論理的に正しいことを軽視する「考えるな」文化、「結果オーライ」文化が、「進歩」「自由」を装って現れ、ファシズムをアシストしたようです。中野が「二・二六事件」の3日目に、あえて小林批判をしたのはそのためでしょう。 ・・・横光利一や小林秀雄は小説と批評との世界で論理的なものをこき下ろそうと努力している。横光や小林は、たまたま非論理に落ちこんだというのでなく、反論理的なのであり、反論理的であることを仕事の根本として主張している。彼らは身振り入りで聞き慣れぬ言葉をばら撒いている・・・ ・・・小林秀雄などは力めてこの混乱をつくり出そうとして努力している。横光利一などはこの混乱を直そうとする傾向を防ごうとして力んでいる・・・・ ・・・そして分らない言い廻わしでなしには小林は何一ついえない。・・・ ・・・独断と逆説とによる卑俗さをロココ的なものかのように振りまわすこの伊達者たちは、外国の作家、特にフランス作家たちを引き合いに出したがっているが、フランス近代文学の伝統はそういうものの克服の上に立っている。アンシクロペヂストたちや幾何学におけるデカルトはこの伊達者連中に穢されるにはあまりに叡智に充ちている。日本文学は自分が伸びるためには、これらの伊達者のビラビラを草履でとりのけねばなるまい。 (以上、中野重治「閏二月二九日」より) その後、小林は反論を試みていますが、ある意味中野の論を認めており、自分の文章は評論ではなく「評論的雑文」なのだと書いています。 論理的なものに対する嫌悪は、横光の「新しい時代の土俵は、論理の立ち得るような安穏な所には、なくなって来たのである」という言葉にも、昭和10年に書かれた尾崎士郎の小説『空想部落』の「嘘か本当かはどうでもいい」「情熱こそが重要なのだ」といったトーンにもよく現れています。『空想部落』が映画化され世に受け入れられたことなどから考えると、「反論理」が時代の空気であり、彼らはその空気の中で認められていったのでしょう。 小林がヒットラーの『我が闘争』(訳:室伏高信)を手放しで賞賛したのも(昭和15年)、尾崎が「二・二六事件」を美的側面において肯定したのも、「反論理」の帰結といえます。感情・主観や結果や独断・大義ばかりで、「反論理」の元、たくさんの血や涙が流れていることなどには思い至らないのでしょうか。 独裁を目指す勢力は、あまたの主権者にものを言わせないようにするでしょうし、そのためにも人々が「反論理」である方(考えない方)が好都合なのでしょう。また独裁(独占的)勢力をあてにしたりそれを基盤にしたり、またはそれにとりいって生活を成り立たせている人たちの多くは、意識的または無意識に「反論理」の立場をとることが多いでしょう。現今、またファシズム的傾向が強まっています。それに連動してか、やはり、言論界にも、政界にも、身の回りにも、「反論理」の振る舞いをする人が多く見受けられるようですが、気のせいでしょうか? 江戸の終末期の1867年に吹き荒れた「ええじゃないか」は、民衆を「反論理」(「世直りええじゃないか」「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」)の狂奔に導いて、討幕軍の暴力に民衆の目が向かないようにしたと考えられます。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日 |