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現前する言葉たち(大正13年6月13日、築地小劇場が開幕)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和19年、皇紀2600年記念行事として公演された「大仏開眼」。当局は演劇人も手なづけたつもりだったが・・・ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場』(未来社)


大正13年6月13日(1924年。 丸山定夫(23歳)の叩くドラの と共に、「築地小劇場(東京都中央区築地二丁目12-3 Map→ ※記念碑があるPhoto→の第1回公演「海戦」(ゲーリング作)の幕が上がりました。築地小劇場新劇では日本初の常設劇場です。

土方与志 小山内薫
土方与志

前年(大正12年)の関東大震災で東京の文化は壊滅状態になりました。ベルリンで演劇を学んでいた土方与志ひじかた・よし(26歳)は急遽帰国し、師事していた 小山内 薫おさない・かおる(42歳)を巻き込んで、「築地小劇場」開設を進めます。小山内は明治末より二代目市川左團次と自由劇場を結成、「役者を見にいく演劇」から「戯曲を堪能する演劇」への脱皮を標榜しました。新しいメディアに対しても柔軟で、黎明期の映画界でも重要な役割を果たしてきました。

工事が始まったのは4月の終わりで、1ヶ月半ほどの工期でしたが、世界初の電気照明室、日本で初めての「クッペル・ホリゾン」(湾曲した背景や丸天井を照らす照明)、可動舞台などを導入、日本のみならず、世界最先端の劇場が誕生します。

土方は演劇運動の指導者でありながら、爵位があり資産家だったので今でいう億単位を劇場建設に投入。劇場、特に小劇場の経営を成り立たせるのは至難の技です。土方はパトロンでもあったのです。

築地小劇場」は「演劇の実験室」として注目され、当時、「文学青年=築地(小劇場)ファン」といった勢いでした。高見 順は「築地小劇場」の機関紙に劇論を訳載するなど深く関わりました。宮沢賢治も大正15年の上京の際も、昭和3年の上京の際も足を運んでいます。

「築地小劇場」の内部。建坪は80坪で一階建て。定員468名。緊密な空間設計で、座席によって差が出ないよう工夫されていた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『劇場の近代化』(思文閣出版) 砲塔の中だけで繰り広げられる「海戦」の舞台。7人の水夫は、焦燥と恐怖にかられ、終いには・・・。観た者に忘れ得ぬ印象を残した1作 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場』(未来社)
築地小劇場」の内部。建坪は80坪で一階建て。定員468名。緊密な空間設計で、座席によって差が出ないよう工夫されていた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『劇場の近代化』(思文閣出版) 砲塔の中だけで繰り広げられる「海戦」の舞台。7人の水夫は、焦燥と恐怖にかられ、終いには・・・。観た者に忘れ得ぬ印象を残した1作 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場』(未来社)

大正15年頃から劇団「築地小劇場」築地小劇場附属の劇団)に変化が現れます。大きな存在だった 千田是也せんだ・これや が「芸術至上主義にあきたらず」として退団、千田と繋がる劇団員は劇団内に独自に研究会を組織しました。彼らはプロレタリア演劇運動の影響を受けていました。昭和3年小山内(47歳)が急逝するとその芸術至上主義を支持する団員が、プロレタリア演劇に理解を示す土方を排斥するようになります。翌昭和4年、土方を支持する丸山定夫(28歳)、薄田研二(30歳)、山本安英やすえ、細川ちか子ら代表的6名が退団、新築地劇団を結成。久保 栄千田もこれに合流しました。第1回公演として、金子洋文作の「飛ぶ唄」と高田 保脚色の「生ける人形」を上演、成功させます。以後「左翼劇場」(昭和3年結成の「ナップ(全日本無産者芸術連盟」)の演劇部門)と共にプロレタリア演劇を展開していきました。

昭和4年に『西部戦線異常なし』が世界で話題になると、同年11月、劇団「築地小劇場」と「新築地劇団」がともに舞台化。反戦的な作品だったため政府から圧力がかかり、「新築地劇団」の脚本は1万字以上がカットされ、最後の幕はまるまるカット。その箇所で役者は口をぱくぱくさせるだけでしたが、割れんばかりの拍手と歓声があったそうです。

「新築地劇団」に勢いを削がれたからでしょうか、劇団「築地小劇場」は2年後の昭和5年に解散します。

昭和8年2月20日、小林多喜二(29歳)が特高警察に虐殺されると、「築地小劇場」で労農葬が開かれました(「築地小劇場」は多喜二が虐殺された築地署の所轄)。「新築地劇団」は翌月(3月)追悼公演として多喜二の「沼尻村 Amazon→」を14日間上演しました。東野英治郎(25歳)や滝沢 修(26歳)、薄田研二(34歳)、浜村 純(27歳)も舞台に立っています。演出家の岡倉司朗は稽古中検挙されました。

「沼尻村」の舞台 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場』(未来社)
「沼尻村」の舞台 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場』(未来社)

昭和9年、村山知義(33歳)の呼びかけで、プロレタリア系の「中央劇場(「左翼劇場」の後身)」、「新築地劇団」の一部団員、「美術座」によって「新協劇団」が結成されます。以後、「新築地劇団」と共に「築地小劇場」の運営にあたり「新協・新築地時代」(「新新時代」))となります。

しかし、当局の弾圧は激しさを増し、劇場前に警察官が数十人ずらりと並んで入場者の身体検査ということもありました。「国体」に反するもの(と判断されたもの)を持っていようものなら、即検挙です。観劇する人にも覚悟が必要でした。

昭和15年は「皇紀2600年」に当たるとされ、記念行事が盛大に行われました。行事を拒否すれば当局からどんな嫌がらせがあるかしれません。劇団側は討論の末、行事に一枚噛むこととなりました。「新協劇団」は長田ながた秀雄の「大仏開眼」を上演(この頁上部の写真を参照)。彼らは、大仏建立を可能にした農民の動員(農民からの搾取)もしっかり表現しました。

昭和15年8月19日未明、警視庁は、どうにも我慢ならない演劇人の大量検挙に出ます。「新協劇団」と「新築地劇団」の主要メンバー100名以上が検挙されました。村山知義(39歳)、久保 栄(40歳)、滝沢 修(34歳)、秋田雨雀(57歳)、久板ひさいた栄二郎(42歳)、小沢栄太郎(31歳)、三島雅夫(34歳)、松本 克平かっぺい(35歳)、宇野重吉(25歳)、細川ちか子(34歳)、赤木蘭子(26歳)、原 泉(25歳)らも、すでに退団していた千田是也(36歳)も逮捕され、支援組織や後援会からも逮捕者が出て、両劇団は「自発的解散」に追い込まれました。

ついについ えたとはいえ、 アジア太平洋戦争の前年まで戦争に抗した一群の演劇人がいたことは銘記されていいでしょう、体制側の凶暴な思想弾圧を銘記するとともに。

演劇人は主体的な活動の場を失い(「日本移動演劇連盟」という国策団体ができ慰問巡演が盛んになる)、「築地小劇場」の建物も東京大空襲で失れました。

築地”で育った演劇人は、戦後、圧政から解放されるや、演劇・映画・テレビシーンの一翼を担っていきます。映画「松川事件」には、宇野重吉、千田是也も出演。そりゃ、出演しますよね。

菅井幸雄『築地小劇場』(未来社) 神山 彰『近代演劇の脈拍 〜その受容と心性〜』(森話社)
菅井幸雄『築地小劇場』(未来社) 神山 彰『近代演劇の脈拍 〜その受容と心性〜』(森話社)
『小劇場演劇とは何か (立教大学日文叢書)』(ひつじ書房)。編:後藤隆基 西村多美子『実存 〜1968-69状況劇場〜』(グラフィカ編集室)
『小劇場演劇とは何か (立教大学日文叢書)』(ひつじ書房)。編:後藤隆基 西村多美子『実存 〜1968-69状況劇場〜』(グラフィカ編集室)

■ 馬込文学マラソン:
高見 順の『死の淵より』を読む→

■ 参考文献:
●『築地小劇場』(菅井幸雄 未来社 昭和49年発行)P.7-17、P.32-35、P.72-77、P.104-113、P.147-150 ●『嬉遊曲、鳴りやまず 〜斎藤秀雄の生涯〜(新潮文庫)』(中丸美繪 平成14年発行)P.108、P.115-116 ●『劇場の近代化 〜帝国劇場・築地小劇場・東京宝塚劇場〜』(永井聡子 思文閣出版 平成26年発行)P.82-86 ●『築地小劇場史』(水品春樹 梧桐書院 昭和6年初版発行 昭和14年再版参照)P.199-200 ●『高見 順 ~人と作品~』( 石光 葆いしみつ・しげる 清水書院 昭和44年初版発行 昭和46年2刷参照)P.40-41 ●「小林多喜二/評伝」(小笠原 克)※『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.96

※当ページの最終修正年月日
2024.6.13

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