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自由と平和と民主の演劇人(大正13年6月13日、築地小劇場、開設される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



築地小劇場 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/築地小劇場(平成30年4月19日更新版)→

 

大正13年6月13日(1924年。 土方与志ひじかた・よし(26歳)と 小山内 薫おさない・かおる (42歳)が、日本初の新劇常設劇場「築地小劇場」(東京都中央区築地二丁目12-3 map→)を開設しました。

土方与志
土方与志

土方は東京帝国大学国文科を卒業後、演劇界・映画界で活躍していた小山内に師事、大正11年には演劇を学ぶためドイツに留学していました。大正12年9月1日関東大震災が起こると、急きょ帰国し、復興を促進するために建築基準が甘くなったのを機に、大正13年初頭から劇場建設をすすめ、約半年で完成させます。バラック小屋程度のものを作る予定が、最終的には 世界初の電気照明室を持つ最先端の劇場ができました。可動舞台も備えていたとか。土方は伯爵なのでお金があったのでしょうか。当時の貨幣価値で7億円ほどが投入されたそうです。

「築地小劇場」跡の記念碑。書は里見弴(さとみ・とん) 「築地小劇場」の内部。定員468名。座席によって効果に差がでないよう工夫されていたようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『劇場の近代化』(永井聡子)
築地小劇場」跡の記念碑。書は 里見 弴さとみ・とん 築地小劇場」の内部。定員468名。座席によって効果に差がでないよう工夫されていたようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『劇場の近代化』(永井聡子)

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小山内薫

小山内は相談役といったところでしょうか。

小山内も行動する人で、東京帝国大学英文科を卒業後、明治40年(26歳)同人誌「新思潮」を創刊、明治42年(28歳)二代目市川左團次と自由劇場を結成、「役者を見にいく演劇」から「物語(戯曲)を堪能する演劇」を目指し、新劇運動を展開していきます。小山内も二代目市川左團次も「パンの会」のメンバーで、文学・演劇・美術が一緒になって芸術運動を盛り上げていこうという気運の中にありました。

小山内は当地(東京都大田区)の「松竹蒲田撮影所」とも深い関わりを持ちました。大正9年7月の開所に先立って作られたキネマ俳優学校に招かれて校長となり、理事、総監督としても活躍。約3年間、絶大な影響力を持ちます。

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築地小劇場」では、開設された翌日(大正13年6月14日)、小山内が育てた劇団「築地小劇場」によってゲーリングの「海戦」が演じられます。演出は土方。このこけら落としは、高見 順(17歳)らに衝撃を与えたようです。高見はその後、「築地小劇場」の機関誌に海外の演劇論の翻訳をのせたり、俳優の丸山定夫と親交したり、演劇に係わりを持つようになります。

村山知義 千田是也

築地小劇場では、附属の劇団「築地小劇場」の他にも、「日本プロレタリア芸術連盟」傘下の「前衛座(以後、分裂統合して→「前衛劇場」→「左翼劇場(東京左翼劇場)」)」(村山知義 千田是也せんだ・これや など)も公演。

丸山定夫 薄田研二 高田 保

劇団「築地小劇場」は、昭和3年、小山内(47歳)が急逝すると、土方の排斥運動が起こり、翌昭和4年、丸山定夫(28歳)や、当地(東京都大田区)にゆかりある薄田研二(30歳)ら土方寄りの人が分裂して「新築地劇団」(山本 安英やすえ 、久保 栄、千田是也なども)を結成。第1回公演「生きる人形」の脚本を当地(東京都大田区)にゆかりある高田 保(34歳)が書きました。「日本プロレタリア芸術連盟」に加盟して、「左翼劇場」とともに「築地小劇場」を舞台にプロレタリア演劇運動を展開します。

同年(昭和4年)、『西部戦線異常なし』が世界的にヒットすると、同年11月には、劇団「築地小劇場」と「新築地劇団」がともに舞台化。脚色は、前者が村山知義、後者が高田 保です。反戦的な作品だったため政府から圧力がかかり、「新築地劇団」の脚本は1万字以上が伏字となり、最後の幕などは検閲でまるまるカットされます。その箇所で役者は口をぱくぱくさせることしかできませんでしたが、それでも割れんばかりの拍手と歓声があったそうです。

「築地小劇場」のこけら落しは、ドイツの表現主義の劇作家・ラインハルト・ゲーリングの「海戦」だった。※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場史』(水品春樹) レマルクの「西部戦線異常なし」の舞台。劇団「築地小劇場」による本郷座での12日間の公演では、連日、客が電車通りにまであふれた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場史』(水品春樹)
築地小劇場」のこけら落しは、ドイツの表現主義の劇作家・ラインハルト・ゲーリングの「海戦」だった。※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場史』(水品春樹) レマルクの「西部戦線異常なし」の舞台。劇団「築地小劇場」による本郷座での12日間の公演では、連日、客が電車通りにまであふれた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『築地小劇場史』(水品春樹)

昭和6年の満州事変前後から「侵略行為や戦争に反対する人は非国民(今でいう反日)」といった風潮が蔓延し、プロレタリア演劇運動への弾圧も強まります。観客は持ち物を調べられ身体検査もされました。検束された役者も多く、戦後、お茶の間で親しまれる沢村貞子(23歳)もこの頃捕えられています。捕えられた人を取り戻そうと築地警察署に押しかけた人も警察は検束していきました。恐怖感から脱落する演劇人もでてきます。山本安英(29歳)のように病いの床のつく人もいました。

昭和8年2月20日、小林多喜二(29歳)が特高警察に虐殺されると、「築地小劇場」で労農葬が開かれることになりますが、警察が妨害。「新築地劇団」は追悼公演として多喜二の「沼尻村 Amazon→」を14日間公演。東野英治郎(25歳。初代「水戸黄門」)や滝沢 修(26歳。「炎の人」のゴッホ役)、薄田研二(34歳)も舞台に立ちました。演出家の岡倉司朗は稽古中検挙されています。

昭和9年、村山知義(33歳)の呼びかけで、プロレタリア系の「中央劇場(「左翼劇場」の後身)」、「新築地劇団」の一部団員、「美術座」によって「新協劇団」ができました。以後、この「新協劇団」と「新築地劇団」が「築地小劇場」を管理します(「新協・新築地時代」(「新新時代」))。劇団「築地小劇場」は昭和5年に解散。

しかし、昭和15年、「新協劇団」の村山知義(39歳)、久保 栄(40歳)、滝沢 修(34歳)、秋田雨雀(57歳)、 久板ひさいた 栄二郎(42歳)、小沢栄太郎(31歳)、三島雅夫(34歳)、松本克平かっぺい (35歳)、宇野重吉(25歳。寺尾 聰さんの父)、細川ちか子(34歳)、赤木蘭子(26歳)、原 泉(25歳。中野重治の妻)ら26名が逮捕され、支援組織や後援会からも逮捕者が出て、強制解散させられます。「新築地劇団」の団員も多数逮捕され、すでに退団していた千田是也(36歳)も逮捕され、やはり同年強制解散させられます。両団ともついに潰えたとはいえ、太平洋戦争の前年まで戦争に抗した一群の演劇人がいたことは銘記されるべきでしょう、体制側の凶暴な思想弾圧とともに。演劇人は主体的な活動の場を失い(「日本移動演劇連盟」という国策演劇団体ができ慰問巡演活動が盛んになる)、「築地小劇場」の建物も東京大空襲で失れました。

築地小劇場」で育った演劇人は、戦後、圧政から解放されるや、戦後の演劇・映画・テレビシーンを作っていく原動力となります。「松川事件」の裁判闘争の最中に撮られた映画「松川事件」には、戦前からの闘士・宇野重吉、千田是也、沢村貞子も出演していますね。

吉田謙吉『築地小劇場の時代 〜その苦闘と抵抗と〜』(八重岳書房 )* 菅井幸雄『築地小劇場』(未来社)
吉田謙吉『築地小劇場の時代 〜その苦闘と抵抗と〜』(八重岳書房 )* 菅井幸雄『築地小劇場』(未来社)

■ 馬込文学マラソン:
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■ 参考文献:
●『劇場の近代化 〜帝国劇場・築地小劇場・東京宝塚劇場〜』(永井聡子 思文閣出版 平成26年発行)P.82-86 ●『築地小劇場史』(水品春樹 梧桐書院 昭和6年初版発行 昭和14年再版参照)P.199-200 ●『築地小劇場』(菅井幸雄 未来社 昭和49年発行)P.104-113

■ 参考サイト:
●ウィキペディア/・築地小劇場(平成30年4月19日更新版)→ ・土方与志(平成30年4月22日更新版)→ ・小山内 薫(平成30年1月21日更新版)→ ・東京左翼劇場(平成28年11月20日更新版)→ ・新協劇団(平成29年1月21日更新版)→ ・新築地劇団(平成29年12月9日更新版)→ ・ラインハルト・ゲーリング(平成29年9月20日更新版)→ ・日本移動演劇連盟(令和2年5月17日更新版)→

※当ページの最終修正年月日
2020.6.14

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