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大正13年6月13日(1924年。
土方は東京帝国大学国文科を卒業後、演劇界・映画界で活躍していた小山内に師事、大正11年には演劇を学ぶためドイツに留学していました。大正12年9月1日関東大震災が起こると、急きょ帰国し、復興を促進するために建築基準が甘くなったのを機に、大正13年初頭から劇場建設をすすめ、約半年で完成させます。バラック小屋程度のものを作る予定が、最終的には 世界初の電気照明室を持つ最先端の劇場ができました。可動舞台も備えていたとか。土方は伯爵なのでお金があったのでしょうか。当時の貨幣価値で7億円ほどが投入されたそうです。
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小山内は相談役といったところでしょうか。 小山内も行動する人で、東京帝国大学英文科を卒業後、明治40年(26歳)同人誌「新思潮」を創刊、明治42年(28歳)二代目市川左團次と自由劇場を結成、「役者を見にいく演劇」から「物語(戯曲)を堪能する演劇」を目指し、新劇運動を展開していきます。小山内も二代目市川左團次も「パンの会」のメンバーで、文学・演劇・美術が一緒になって芸術運動を盛り上げていこうという気運の中にありました。 ------------------------------------------------------ 「築地小劇場」では、開設された翌日(大正13年6月14日)、小山内が育てた劇団「築地小劇場」によってゲーリングの「海戦」が演じられます。演出は土方。このこけら落としは、高見 順(17歳)らに衝撃を与えたようです。高見はその後、「築地小劇場」の機関誌に海外の演劇論の翻訳をのせたり、俳優の丸山定夫と親交したり、演劇に係わりを持つようになります。
「築地小劇場」では、附属の劇団「築地小劇場」の他にも、「日本プロレタリア芸術連盟」傘下の「前衛座(以後、分裂統合して→「前衛劇場」→「左翼劇場(東京左翼劇場)」)」(村山知義、
劇団「築地小劇場」は、昭和3年、小山内(47歳)が急逝すると、土方の排斥運動が起こり、翌昭和4年、丸山定夫(28歳)や、当地(東京都大田区)にゆかりある薄田研二(30歳)ら土方寄りの人が分裂して「新築地劇団」(山本
同年(昭和4年)、『西部戦線異常なし』が世界的にヒットすると、同年11月には、劇団「築地小劇場」と「新築地劇団」がともに舞台化。脚色は、前者が村山知義、後者が高田 保です。反戦的な作品だったため政府から圧力がかかり、「新築地劇団」の脚本は1万字以上が伏字となり、最後の幕などは検閲でまるまるカットされます。その箇所で役者は口をぱくぱくさせることしかできませんでしたが、それでも割れんばかりの拍手と歓声があったそうです。
昭和6年の満州事変前後から「侵略行為や戦争に反対する人は非国民(今でいう反日)」といった風潮が蔓延し、プロレタリア演劇運動への弾圧も強まります。観客は持ち物を調べられ身体検査もされました。検束された役者も多く、戦後、お茶の間で親しまれる沢村貞子(23歳)もこの頃捕えられています。捕えられた人を取り戻そうと築地警察署に押しかけた人も警察は検束していきました。恐怖感から脱落する演劇人もでてきます。山本安英(29歳)のように病いの床のつく人もいました。 昭和8年2月20日、小林多喜二(29歳)が特高警察に虐殺されると、「築地小劇場」で労農葬が開かれることになりますが、警察が妨害。「新築地劇団」は追悼公演として多喜二の「沼尻村 Amazon→」を14日間公演。東野英治郎(25歳。初代「水戸黄門」)や滝沢 修(26歳。「炎の人」のゴッホ役)、薄田研二(34歳)も舞台に立ちました。演出家の岡倉司朗は稽古中検挙されています。 昭和9年、村山知義(33歳)の呼びかけで、プロレタリア系の「中央劇場(「左翼劇場」の後身)」、「新築地劇団」の一部団員、「美術座」によって「新協劇団」ができました。以後、この「新協劇団」と「新築地劇団」が「築地小劇場」を管理します(「新協・新築地時代」(「新新時代」))。劇団「築地小劇場」は昭和5年に解散。 しかし、昭和15年、「新協劇団」の村山知義(39歳)、久保 栄(40歳)、滝沢 修(34歳)、秋田雨雀(57歳)、
「築地小劇場」で育った演劇人は、戦後、圧政から解放されるや、戦後の演劇・映画・テレビシーンを作っていく原動力となります。「松川事件」の裁判闘争の最中に撮られた映画「松川事件」には、戦前からの闘士・宇野重吉、千田是也、沢村貞子も出演していますね。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日 |