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寄席がある(昭和32年3月24日、小島政二郎の小説『円朝』の連載が始まる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿「末廣亭すえひろてい 」(Site→ X→)にて。昼夜入れ替えなしで、ほとんど毎日やっている(そういった寄席よせを「 定席じょうせき」といい、東京だけで4軒ある)。正午から夜8時半までいれば、30以上の話と名人芸に接することができる。それでポッキリ3,000円。自由席なので、少々並べばいい席で鑑賞できる。落語の合間合間にやられる講談や浪曲、色物のぞ太神楽だいかぐら、漫才、コント、曲芸、手品、紙切りなど)も楽しい。テレビでお馴染みの芸人や人間国宝もひょいとやってくる。皆、寄席という場を大切に思い、採算抜きで支えているんだな。3.11の後も通常通り営業した!(紙切りの正楽しょうらく師匠は、会場からのリクエストに応えて「帰宅難民」を切ったとか)

小島政二郎

昭和32年3月24日(1957。 より、「週刊朝日」で、小島政二郎(63歳)の『円朝』の連載が始まりました。

小島は円朝とつながりがあり、書かなくてはならない人物の一人だったと思われます。円朝について他の人が知らないことを小島は知っていたようです。

なぜなら、小島の祖父の利八は、円朝の大親友だったから。利八は円朝と幼友だちで寺子屋も一緒。長じては、円朝の相談相手ともなり、名が売れる前の円朝のために家を一軒建てるなど(利八は大工の棟梁だった)、多大な支援もしています。小島は利八から円朝のことをいろいろと聞いたことでしょう。幼い頃の小島は、利八に連れられて、寄席で、円朝の話を直に聞くこともできました。

円朝
円朝

で、円朝とは何者でしょう?

一言で言うと「近代落語の祖」。天保10年(1839年)、江戸の湯島に生まれ、7歳で小円太という名で寄席に出演。17歳で円朝と改名して真打になります。自作落語(新作落語)で人気を博し、三遊派の実力者になりました。数々の名作を創作、高度の話芸により、落語の次元を高めたとされています。

小島の『円朝』で特に印象に残ったのが、円朝が自作落語に専念するようになったきっかけ。嘘のような話ですが、他の文献にもそう書いてあるので、おおかた事実なのでしょう。

円朝は師匠(円生えんしょう(二代目))のすすめで、一流の寄席に看板を出すことになります。その初日は「 宮戸川 みやとがわ 」(宮戸川は隅田川のこと)という話に決めて、芝居話(背景や道具入りで演じる)なので宮戸川の絵などもすっかり用意して、いよいよ本番。円生も駆けつけてくれて、前に一席やってくれることになります。ところが、円生が先にやったのが円朝が用意していたのと同じ「宮戸川」だったのです。円朝は宮戸川が出てくる別の話にとっさに切り替えざるをえず、冷や汗をかきます。翌日も、明後日も、円生が先に円朝が用意していたのと同じ話をしたというのですからたまりません。

その後、円朝は、師匠(円生)から教わった話は一切しまいと誓い、自作落語の道へ入っていきます。

上り調子の円朝を円生が妬んで意地悪したと考えられてますが(小島の『円朝』でもそう)、円朝は「これこそは師円生が我をして励まさんとの心よりわざと計られしものなるべし」と善意にとりました。後年、病気がちになって生活が苦しくなった円生を円朝は助けます。

人魂

円朝の「怪談牡丹灯籠ぼたん・どうろう 」などは速記されて出版され(「速記本」)、言文一致の文体(口語体)が広まるきっかけともなりました。二葉亭四迷が書いています。

・・・何か一つ書いてみたいとは思ったが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生のもとへ行って、どうしたらよかろうと話してみると、君は円朝の落語を知っていよう、あの円朝の落語通りに書いてみたらどうかという。・・・(中略)・・・早速、先生のもとへ持っていくと、とくと目を通しておられたが、たちまちはたと膝を打って、これでいい、そのままでいい、なまじっか直したりなんぞせぬ方がいい、とこうおっしゃる。
 自分は少し気味が悪かったが、いいというのを怒る訳にもいかず・・・(二葉亭四迷「余が言文一致の由来」より)

円朝の落語では、「芝浜」「文七元結」「真景累ケ淵しんけい・かさねがふち」など歌舞伎の人気演目になっているものもあります。

落語、つまりは「落ち」のある話は、平安時代初期の『竹取物語』などにもみられ、話すことを生業とする人(御伽衆おとぎしゅう や説教師など)も昔からいましたが、現在に連なる寄席や落語家の誕生はずっとこっち寄りです。寛政10年(1789年)、 下谷したや 神社(東京都台東区東上野三丁目29-8 Map→ ※「寄席発祥之地」の石碑がたつ)で打たれた三笑亭可楽の興行がその最初とされています。

この可楽に師事した円生(初代。1768-1838)が三遊派(三遊一門)の祖となりました。上記のように円生(二代目)門下から円朝が出ましたが、円朝は「円生」の名を弟子の円楽(初代)に譲ります。その後「円生」の名は六代目(ヤクザ映画の傑作「昭和残俠伝」にも出演)まで継承されましたが、その後途絶えています。円楽(六代目)が「円生」の名をもう一度世に出すことが三遊一門と落語界への恩返しと考え、その襲名に意欲をもやしていましたが、残念ながら令和4年に病没。

「円生」などの名跡みょうせき の襲名に象徴されるように、落語では師匠から受け継がれる「伝統」が大切にされます。師匠・先輩から代々受け継がれる話(古典落語)が、今の寄席でも繰り返し繰り返し取り上げられます。円朝が円生(二代目)に意地悪された「宮戸川」なる話も、寄席に通っていれば、必ずや聞けるでしょう(3.11直後の寄席でも吉原朝馬(四代目)がった)。「宮戸川」という話が分かると、今度は、誰が、「宮戸川」どう演るか、に関心が向いていきます。

一方、円朝の「円生」襲名拒否に表れているように、落語には「伝統」からの離脱の力学も働いています。この「伝統」と「伝統」否定のせめぎ合いや折り合いの付け方が落語の面白いところです。

そのせめぎ合いと折り合いは、落語界全体にもあれば、落語家個人の中にもあります。落語家個人の志向の違いが、落語界が分裂や統合を繰り返す理由でしょう。また、一人の落語家の中に「伝統」と「伝統」否定が共存し、それは得意の話の割合(古典落語と新作落語の割合)にも表れています。ただし、古典落語を演っても、ほぼ新作と言っていいほど料理して話す落語家もいるので、古典落語が多いから「伝統」重視とかといえば、一概にそうともいえません。落語(本題の話)に入る前の話(まくら)にも、落語家の個性や志向が表れますね。

小島政二郎『円朝(上)(河出文庫)』。気の弱い男だったが、家族や先人や数々の女たちが、落語の名人・円朝を作ってゆく 『円朝の怪談噺 〜真景累ケ淵(しんけい・かさねがふち)・怪談牡丹燈籠・怪談乳房榎(ちぶさ・えのき) (角川ソフィア文庫) 』。円朝の怪談噺の代表的3作
小島政二郎『円朝(上)(河出文庫)』。気の弱い男だったが、家族や先人や数々の女たちが、落語の名人・円朝を作ってゆく 『円朝の怪談ばなし 〜真景累ケ淵・怪談牡丹燈籠・怪談乳房榎ちぶさ・えのき (角川ソフィア文庫) 』。円朝の怪談噺の代表的3作
佐藤友美『ふらりと寄席に行ってみよう』(辰巳出版)。イラスト入りで、寄席のことがいろいろ分かる。代表的な寄席芸人や、代表的な古典落語も紹介 「落語物語」。監督:林家しん平。「涙もやがて、笑顔にかわる、下町人情物語」。ピエール瀧、田畑智子のほか、40人を超える現役落語家が出演。東京の4軒の定席で撮影された
佐藤友美『ふらりと寄席に行ってみよう』(辰巳出版)。イラスト入りで、寄席のことがいろいろ分かる。代表的な寄席芸人や、代表的な古典落語も紹介 「落語物語」。監督:林家しん平。「涙もやがて、笑顔にかわる、下町人情物語」。ピエール瀧、田畑智子のほか、40人を超える現役落語家が出演。東京の4軒の定席で撮影された

■ 馬込文学マラソン:
小島政二郎の『眼中の人』を読む→

■ 参考文献:
●『敵中の人 〜評伝・小島政二郎〜』(山田幸伯 白水社 平成27年発行)P.699 ●「三遊亭円朝」(関山和夫)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●『円朝(上)(河出文庫)』(小島政二郎 平成20年発行)P.47-62 ●「解説」(中野 翠)※『三遊亭圓朝の明治』(矢野誠一 朝日新聞出版 平成24年発行)に収録 ●「落語」(関山和夫))※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「三遊派」※「日本国語大辞典(精選版)」(小学館)コトバンク→ ●「三遊亭円生」(関山和夫))※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「円楽さん死去  「円生」襲名に意欲 「笑点」では腹黒、素顔は「いい人」」(神野栄子)※「東京新聞(朝刊)」(令和4年10月1日号)掲載 ●『寄席の底ぢから』(中村 伸 三賢社 平成30年発行)P.21-P.26

※当ページの最終修正年月日
2024.3.24

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