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昭和41年1月13日(1966年。
東映映画「昭和 「昭和残俠伝」は東映ヤクザ映画の代表的シリーズで、当地(東京都大田区大森)出身の池部 良も重要な役を演じています。 当時、池部は、日本映画俳優協会の理事長として警視庁の暴力団追放キャンペーンに携わっており、最初オファーを断りましたが、 ・・・ひどく抵抗したけれど「やくざと言っても今の暴力団の組員じゃない。筋の通ったやくざで言わば日本人の心、義理と人情にこだわる男のロマンの話だ」というプロデューサーの言にかなり説得力があったので遂に出演することになった。・・・(池部 良『風が吹いたら』より) 映画が公開されると、相方の高倉 健の派手な刺青、ドスの利いた声、たくましい身体とコントラストをなし、知的な侠客風情と最後に死ぬといった悲劇性が観客に受けて、池部もヤクザ映画のスターとして脚光を浴びていきます。池部の演じるヤクザは本物のヤクザからも 「昭和残俠伝」シリーズ(全9作)のそれぞれに連続性はありませんが、だいたいが、敵対勢力の嫌がらせに耐えに耐える高倉が、最後に殴り込みにいくというパターンのようです。 池部は敵対勢力側に所属することも多いですが、高倉とは真情で結ばれ、高倉が一人で殴り込みをかけようというとき、そっと
ヤクザやヤクザ的な生き方をする人を題材にした映画は戦前から数多くありましたが(国定忠治もの、清水次郎長もの、森の石松ものなど)、特に、戦後、昭和38年ごろから東映が量産したものをヤクザ映画(任侠映画)と呼ぶようです。当地(東京都大田区)にゆかりある作家・尾﨑士郎が原作の「人生劇場 飛車角」(昭和38年公開。出演:鶴田浩二、高倉 健、佐久間良子ほか Amazon→)のヒットに始まるとのこと。 その後、東映は、他にも「博徒」「日本 「仁義なき戦い」は、第1作が昭和48年公開で、全5作。ヤクザの仁義を貫こうとする
第1作目では、2つの組織の抗争と、その後の内部抗争が描かれます。復員して 「山守さん、 は、日本映画史に残る名セリフでしょう。平成26年の沖縄県知事選で翁長雄志の応援に駆けつけた菅原文太は応援演説でこのセリフを言い、歓声が上がりました(YouTube→)。 「昭和残俠伝」では最後に高倉が巨悪をバッサリやりますが、「仁義なき戦い」では上のセリフを吐きながらもやらない。単なる勧善懲悪ではなく、人間の多面性や、組織の複雑さも描かれています。キネマ旬報「オールタイム・ベスト200」(平成21年)で堂々の第5位となる ヤクザというアウトローは、政治家や資本家の
万延元年(1860年)、勝 海舟らを乗せて米国に渡った咸臨丸は、明治元年(1868年)、江戸城の開城後、東京品川から脱出した榎本武揚が率いた旧幕府の艦船8艘の1艘となります。しかし、房州沖で台風に遭い、大損害を被って清水港に入港。それを新政府軍が攻撃。乗組員はほぼ全滅となります。死骸が海に漂っても、それを葬れば、新政府軍から目をつけられそうで誰も手をつけることができません。その時活躍したのが侠客・清水次郎長とその子分たちでした。海に漂う死骸を収容し埋葬したのです。この一事で次郎長は尊敬されるようになり、山岡鉄舟や榎本武揚らの知遇も得て、公共事業家(囚人を使った富士裾野の開墾など)としての道を歩むようになります。 「次郎長もの」の映画は、明治44年公開の「清水の次郎長」(監督:牧野省三、出演:尾上松之助(日本映画で最初のスター))を皮切りに、森の石松などの子分を主人公にしたものを含めると200本にも上るとのこと(「国定忠治もの」の映画も130本ほど)。大正9年に設立した松竹蒲田撮影所でも、大正11年には野村芳亭監督が「清水次郎長」を、大正15年には吉野二郎監督が「清水次郎長全伝(前・後篇)」を撮っています。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |