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文永8年10月9日(1271年。
日蓮(49歳)が、鎌倉の
日蓮は明日佐渡国へまかるなり。今夜の寒きにつけても、牢のうちの有様、思ひやられていたはしくこそ 現代語訳すると、「わたしは明日 鎌倉で他宗とそれを庇護する幕府を激烈に批判したかどで日蓮は佐渡島に流されることになりました。旧暦で10月9日といえば新暦では11月19日頃でしょうか。これから寒さの厳しくなる時節に北方の島に流されるというのに、日蓮は自分を嘆かず、土牢の弟子に思いを馳せています。土牢での苦難をポジティブに捉え、身体的に辛い中での勤行こそに大きな意味があると励まし、24歳も若い弟子に対して、会いたいとてらいなく伝えています。日蓮の人柄がよく表れています。日蓮は弟子や信者や
ところで、愛(プラスの関心を寄せること)は、「他者」(属性がことごとく異なり、考え方も全く異なる人たち)に向けることは可能なのでしょうか? イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の聖典「旧約聖書」には、「隣人愛」というのが出てきます。 あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない(「レビ記」19章18節) 「隣人」(身近な人)には「距離的な隣人」と「心理的な隣人」があると思いますが、そういった身近な人たちを愛おしみましょうと勧めています。「自分(たち)だけが」(「(自分と自分が属するところ)ファースト」というものの考え方)という動物的・非社会的・非協調的な存在からの脱却が目指されたわけです。 西暦0年頃、イスラエルのナザレ(ベツレヘムとも)で生まれたイエスが、「隣人」について革新的な解釈をします。ある律法学者がイエスに「“私の隣人”という場合、その隣人はどのような人を指すのですか」と問うと、イエスは次のようなたとえ話をします。 ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われ、着物をはぎ取られた上に半殺しにされました。倒れている彼のそばを一人の祭司が通りかかりますが、祭司は彼を見なかったことにして向こう側に行ってしまいます。レビ人も通りかかりますが彼も行ってしまいました。ところが、あるサマリヤ人は倒れている人を見て気の毒に思い、傷にオリーブ油とぶどう酒を塗って包帯を巻き、自分の家畜に彼を乗せて宿屋に連れて行きました。翌日、そのサマリア人は用事があって宿を離れることとなりますが、宿屋の主人にお金を渡して彼の介抱を頼み、帰りに余計にかかった費用を自分が払うと宿の主人に言いました。(「新約聖書」の「ルカによる福音書」10章より) そして、イエスは律法学者に問い返します。「3人のうち、だれが「隣人」ですか?」と。この「善きサマリヤ人のたとえ」は、「隣人」が身分や属性によるものでないことを示唆しています。
日本とも関わりが深いコルベというポーランド出身のカトリック司祭がいました。昭和14年9月1日のナチスドイツのポーランド侵攻(第二次世界大戦の端緒)後もポーランドの修道院に残り、ユダヤ人だろうが誰だろうが分け隔てなく看護したため(コルベのいた修道院は病院としても機能していた)ナチスの不興を買って、昭和16年2月17日、逮捕されてアウシュヴィッツ強制収容所に送られます。同年(昭和16年)7月末(コルベ47歳)、脱走者が出たことを理由に無作為に選ばれた10人が餓死刑になることになりました。その1人に選ばれたポーランドの軍人が妻子を思って嘆くのをみてコルベは、自分には妻子がいない旨伝えて身代わりになって餓死刑を受けます。コルベは、イエスが説いた「隣人愛」の見事な(奇跡的な)実践者でした。
もちろん「隣人愛」は尊いものですが、「隣人愛」という考え方が落ちりやすい罠もあり、ドイツの思想家ニーチェがそれを喝破しました。彼は「隣人愛」のもと、群れ、馴れ合うのではなく、孤独から出発して、自己に向き合い、真の友を得よと呼びかけます。そのためにあえて自分から遠い人を愛せよとも(「遠人愛」)。 君たちの隣人への愛によって損害をこうむるのは、その場にいない者たちだ。君たちが五人集まると、いつも六番目の者が犠牲の祭壇にのぼらなくてはならぬ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』より) ニーチェは「神が死んだ」と書き、隣人愛を否定したと全否定する人がいるかもしれませんが、ニーチェはイエスの思想補足・発展させているような気がします(とはいえ、ニーチェは、ナショナリズムや優生思想の文脈でも読めてしまうので注意)。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |