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フィリピンのバターン半島のジャングルから投降してきた米比兵たち。その後、収容所への道すがら彼ら7万人のうちおよそ3万人が命を落とす ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『図説 太平洋戦争』(河出書房新社) 昭和17年4月9日(1942年。 日本軍は、フィリピンのバターン半島に退却した米軍とフィリピン軍(以下、比軍)を、猛攻撃の末、降伏させました。 フィリピンは、1529年よりスペインに領有されてきましたが、明治31年の「
太平洋戦争の開戦は、日本海軍のだまし討ち「真珠湾攻撃」に目を奪われがちですが、日本陸軍も同時期に3つの「南方作戦」を展開していました。英国領マレー半島南端のシンガポール、英国領香港、米国領フィリピンを占領し、オランダ領インド(蘭印。現・インドネシア)の石油を確保するのが目的です。 前年(昭和16年)12月下旬、本間雅晴中将が指揮する第14軍がフィリピンのルソン島に上陸し首都のマニラを占領すると、米比軍はバターン半島(マニラ湾の西岸 Map→)に退却。山とジャングルに覆われて天然の要塞と化しているバターン半島の攻略に日本軍は苦労します。3段構えの強固な防御線に阻まれ、日本側にも2週間で2千名もの死傷者を出ました(「第1次バターン攻撃」)。その後日本軍は急遽戦力を増強して陸軍始まって以来の大集中砲撃を加え、とうとう米比軍を降伏させたのです(「第2次バターン攻撃」)。 日本が想定した捕虜数は2万5千人でしたが投降してきた兵士は7万人にものぼりました(市民・婦女子を含めると10万人とも)。医薬品どころか、水や食料すらままなりませんでした。米比兵が投降したバターン半島の突端から「オードネル捕虜収容所」( Map→)までは88kmの徒歩区間があり、捕虜たちは炎天下を3日間歩くことを強いられ、バタバタ倒れていったのです。収容所に到着しても、管理する日本兵は80名ほどしかおらず、そこで命を落とした人も多数。死因は疾病、衰弱、日本兵による刺殺などです。米兵が約2千200人、比兵が約2万6千人亡くなったとされます。比兵が米兵の10倍以上なのは、彼らがより過酷な状況を強いられたことを物語ります。 宣伝部隊員として徴用され従軍していた尾﨑士郎(44歳)がその時の捕虜の様子を次のように記しています。 ・・・何とも名状することのできない異様なかんじである。彼らは道の片側に列をつくり、神妙に土下座していた。顔と服装を見て住民兵の一隊であることがわかる。彼らの表情にはもはや絶望もなければ不安もなく、ただ、生を
オーストラリアまで逃れ得た3人の米兵が、この事件を米国民に伝え、「バターン死の行進(マーチ・オブ・デス)」と名づけられました。米国民には根強い厭戦ムードがありましたが、真珠湾攻撃のだまし討ちと、この“死の行進”から日本への憎悪を深め、戦争遂行への意思を固めます。 「真珠湾攻撃」で米軍に大打撃を与えた日本は、アジア・太平洋戦争の最初の半年、各地の占領を遂行、米比軍の他にも、オーストラリア軍、英国軍、インド軍(英国軍についたインド兵)、オランダ軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の大量の捕虜を得ました。民間人抑留者も15万人ほどいました。 日本人は、幕末から、列強に強い憧れを抱くとともに、列強の軍事的圧力に屈し屈辱も味わってきました。西欧人に対する強いコンプレックスがあったので、西欧捕虜に対して屈折した感情から殊更に侮蔑的な態度をとりました。実体験にもとづいた映画「戦場のメリークリスマス」(原作はローレンス・ヴァン・デル・ポストの「影さす牢格子」と「種子と蒔く者」)にもそういった場面がありました。 捕虜の福利厚生を守るために設けられた「ジュネーブ条約」に日本も調印していましたが(昭和4年。批准はしていなかった)、日本軍はそれを守らず、捕虜を軍事目的にこき使いました。同盟国のドイツ軍やイタリア軍の捕虜の死亡率は4%ほどですが、日本軍の捕虜の死亡率は7倍近くの27%にも上りました。十分な食料や医療を提供しないだけでなく、手荒な扱いや暴行もあったのです。 第二次大戦のために作られた日本で最初の捕虜収容所「善通寺捕虜収容所」(現在の「善通寺西中学校」(香川県善通寺市文京町四丁目1-1 Map→)の近くにあった)は収容人数が限られていたこともあって捕虜虐待が少なく、メディアにも公開されて「日本の兵隊さんは親切」といったプロパガンダに使われました。当地にあった「東京俘慮収容所(大森捕虜収容所)」(現在の平和島(東京都大田区 Map→)あたりは海で、そこに島状に存在した)にも“美談”が残っています。また、日本軍の日露戦争・第一次大戦までの捕虜の扱いは良いことで有名だったので、それらを例に引き「日本軍は素晴らしかった」と今だ主張する人がいます。しかし、第二次大戦(アジア・太平洋戦争を含む)の東南アジアに設置された捕虜収容所での日本兵やその軍属の捕虜扱いが極めて酷かったことは、数々の記録(膨大なオーラルヒストリーを含む)から明らかです。いくつかの例外的な記録で覆るものでは到底ありません。 近年(平成27年4月9日)、フィリピンで行われた「バターン死の行進」の記念式典で、石川和秀(駐フィリピン日本大使)が次のように語り、会場から大きな拍手がありました。 ・・・私たちの心からのお詫びと深い反省の意を、あの運命の日々に苦しまれたすべての人々に表したいと思います。私たちは全員、ここで起きたことを記憶にとどめ、決して忘れることはありません・・・70年前、私たちは敵でしたが今は友人です・・・(
同じく平成27年の4月11日、米国防省主宰で、地元住民や米比の兵士ら約2,000人が平和を考える機会にとバターンでの行進の行程を歩くイベントを催しました。運営側は「日本を非難する意図は全くない」としていますが、日本人が第二次大戦時の捕虜虐待に対して無知であったり、その事実を否定するようであれば、今後彼らの“トラウマ”が再び疼きだすことでしょう。平成28年4月13日、「バターン死の行進」の生存者や家族が作る団体が、「死亡した米兵捕虜らに対する心のこもった追悼をするまでは、広島訪問を控えるように求める」書簡をオバマ大統領に送ったとのこと。(毎日新聞(平成28年4月17日)/米国 広島訪問、各紙が支持…「大統領は敬意表すべきだ」→)
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |