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無条件に可愛い時期はいずれ過ぎ・・・ 昭和26年4月11日(1951年。 付の室生犀星(61歳)の日記に次のようにあります。 ・・・水曜 雨となる 「朝子」は犀星の長女で、3年前(昭和23年)の11月に結婚し家を出ましたが、この日は戻り、1,000円持っていったとのこと。戦後まもない頃で物価の変動が激しく一概には言えませんが、昭和26年の小学校教員の初任給が5,500円との記録があるので、その1/5ほどで、現在の3〜4万円といったところでしょうか。 犀星の日記は、大正13年から昭和6年まで断続的に書かれ、その後17年間ほどブランクがあって、昭和23年から再開されています(まだ他にもあるかもしれません)。犀星の日記を評した中野重治は、この2つの時期を、犀星の「精気充満していた時期」としています。前者は長女・朝子が生まれて半年ほど経った頃で、後者は長女・朝子の結婚を2ヶ月後に控えた頃です。安泰とはいえない幼少期を過ごした犀星にとって、幸せな家庭を築くことは自らに課した至上命令でした。家族に子どもが加わったときと、家族から子どもが旅立とうというとき、その大いなる変化のときに、自身と自身の生活を見つめ直そうとの緊張感をもって日記の筆を取ったのではないでしょうか。 後者、昭和23年からの日記の、長女・朝子について書かれた箇所を拾い読むと、11月1日に、軽井沢の「つるや旅館」(長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢678 Map→ Site→)で結婚式(堀 たえ子(堀 辰雄夫人)と正宗白鳥が媒介。犀星一家は敗戦後も疎開先の軽井沢に留まっていた)を挙げたあと、朝子夫妻は上京。ところが、それから13日しか経たない11月14日、犀星は日記に次のように記しています。 ・・・新井といふ女の人が来て、音楽会の切符の金六百円を取りに来た。朝子朝巳が支払はないので取りに来たのである。立派な美女も六百円ばかりを取りに来るのも、よくよくのことであらう、支払ふ・・・ 犀星が軽井沢にいるうちは、東京にいる朝子らと距離がありましたが、東京に戻ると、朝子からのあれがないこれがないが頻繁となり、金を借りに来ることもしばしばとなり、犀星が貸さないと犀星の妻・とみ子から借りてゆき、20年前文学全集の印税で犀星が朝子に買ったピアノ(当時は相当高価なモノだったようだ)まで売ると言い始め(『杏っ子』では犀星が売ることを提案している)、犀星の胃の痛い日々が訪れます(実際に胃を悪くしている)。 しかし、犀星は根っからの苦労人ですから、朝子をどうしようもないと 大切に育ててきた娘が結婚した相手は“偉そうにする普通の男”で、犀星を追うように物書きを目指していますが、杏子と結婚してからの4年間1枚も原稿が売れていません。そのコンプレックスから性格までねじ曲がってしまったようで、「平四郎〔杏子の父親。犀星がモデル〕の小説はみとめないが、詩はみとめてやる」と酒を飲みながら杏子に対し偉そうに振舞います。そして、自分の原稿が売れないのは平四郎のような「
・・・「わたくしきょう、つくづく女というものが なんと、まあ、直接的(本質的)なんでしょう! 平四郎(犀星)、最高ですね(笑)。 『杏っ子』でそこまでは描かれませんが、結局、杏子(室生朝子)は昭和28年、5年続いた結婚生活に終止符を打って、犀星の元に戻ってきます。その間には、次男の平之助(室生朝巳)も結婚し、別れています。子どもが家を出て、新しい家庭を作るのは、なかなかに困難なことのようです。犀星のように有名人で、さらに資産などがあるとなおさらに。 子どもを題材にした小説はたくさんありますが、『杏っ子』のように自分の子どもを題材にして、かつ紹介したくなるような作品が他にあるかなと思い巡らしますが、あまり思い当たりません。 バンザイの姿勢で眠りいる ● 花 おとなしくして居ると 当地の室生犀星の家(現在「室生マンション」(東京都大田区南馬込一丁目49-10 Map→)が建っている))のはす向かいに日本画家の小林古径が住んでいましたが(室生家と交流があった)、古径も娘さんを描いていますね。画家の作品には、岸田劉生の「麗子像」をはじめ自分の子どもを題材にしたものが結構あるような。
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■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |