大正11年9月22日(1922年。
北村初雄
(25歳)が、 「詩人のうた」という詩を書いています。最終連は、
・・・私が撓みなく樹の夢より深く地を下り
未だ象を生まない爽かな闇に根を張ると
影は光り 行いとなり
慎しく私は閃
く闇の無限の重さを手に耐える
「闇」はまだ自分が知らない広大な世界を表しているのでしょう。「爽かな(闇)」と言っているので、それは、重く恐ろしいだけでなく、まだ知りえてない憧れの対象でもあるようです。北村にとって「詩を書く」とは、おそらく、その「闇」に根を張り、根を張ることで
点
る「光」や「閃き」を書き取ることだったのでしょう。
北村は明治30年2月、東京麹町区飯田町(現・千代田区)で生まれました。宇野千代が同じ年の11月生まれなので、だいたい同じ時代を生きたことになります。幼い頃、家族と共に横浜に移転。大正11年7月(北村25歳)に一家で 当地(東京都大田区)に越してくるまでの少年期・青年期を横浜で過ごしました。
横浜の野毛山の西南の外れ(南太田。京浜急行「南太田駅」(Map→))にあった家の二階の北村の部屋からは、商業地の
屋並や、教会の尖塔、横浜港が見えたようです。この地の開明的な風物が北村のイマジネーションを膨らませていきました。
神奈川県立第一中学校(神中
。旧制中学。後に新制高校の希望ヶ丘高校に。以前は「藤棚団地」(横浜市西区藤棚町二丁目197 Map→)の場所にあった)で同級だった
熊田精華(後に熊田は1年落第)、横浜郵便局の外国郵便課の課長に赴任し神中近くの官舎に住み始めた柳沢 健
の3人で編んだ合著詩集『海港』(大正7年11月発行。北村21歳、熊田20歳、柳沢29歳)は、幽玄
朦朧
とした象徴派の詩の中にあって、特異な明朗な輝きを示して、注目を浴びました。堀口大学は3人を海港詩派とし、讃えました。
北村は、横浜の外人墓地(Map→)を次のように言葉にしています。
・・・乍し、この心は温かさに充ち、平和に充みちて、
言葉が翳のように落ち、また閃めく。
僕の言葉だ。然れども亦、あの人達の言葉だ!
青々と生い立つ潅木の中、
此の世となく、彼の世となく、
静かに、静かに、移って行くこの日影。・・・
(北村初雄「墓碑の群」より)
北村は2年して大正9年(23歳)、東京高等商業学校(東京高商。東京商大や一橋大学の前身)を卒業し、父親が重役を務める三井物産に勤めました。
・・・ああ、巨い海洋
! 巨い海洋
!
然うだ、僕が一橋を卒業して、
里昂の会社にでも勤務る様に成ったなら、
僕は印度洋を渡って行こう、
然して、汽船が船長の水葬された所を通過るとき、
僕は帽子を脱って挨拶しよう!
「僕は貴方の可愛いお子様のお友達で、
姓なら北村、名ならば初雄と申します。」
(北村初雄「印度洋」より)
ところが2年して、大正11年4月より結核で床に臥すようになります。同年7月、一家が当地(東京都大田区山王四丁目1 Map→)に越して来るのは、北村の病状を案じてのことでしょう。病気はことのほか悪く、同居する6人の妹への感染を恐れた北村は
鵠沼
の
東屋
(神奈川県藤沢市鵠沼海岸二丁目8 map→ ※東屋跡に石碑が建っている Photo→ )での療養を切望。同年11月、家族と別れて東屋に向います。上で紹介した詩「詩人のうた」は、当地(東京都大田区山王)に住んだわずか4ヶ月ほどの間に書かれました。
苛酷なことに、北村は、東屋に来て1ヶ月もしない、同年(大正11年)12月2日、その地で帰らぬ人となりました。わずか25歳です。
日夏耿之介は北村の生涯を「北村君は、『樹』〔遺稿詩集〕だけで死んでもよかった」と語ったそうです。短い生涯でしたが詩人として為すべきことは全てやったということでしょう。北村の詩魂は、立原道造にも受け継がれました(立原も昭和14年24歳で死去)。
|
|
当地(東京都大田区)の山王二丁目と三〜四丁目の境にある闇坂(くらやみ・ざか)。この坂を上りつめたあたりの左手に北村家の大きな家があった。緑豊かだった当地で、北村は療養を兼ねた生活を送る予定だったのだろう |
北村のほかにも小泉八雲、斎藤緑雨、志賀直哉、大杉 栄、芥川龍之介らが東屋を利用。広津柳浪がその存在を作家たちに広めたようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :『鵠沼・東屋旅館物語』(高三啓輔 博文館新社)* |
北村に「一生」という詩があります。
一生
僕は未
だ
年齢を取らない。でも僕は赤坊になって仕舞った。
僕は両親をもって居る。乳母の唄が輝いて、僕の夢は温
たかい。
僕はずんずん年齢を取って行く。僕は少年になって仕舞った。
僕は
錫製の犀の玩具
を持って居る。
印度の砂が輝いて、僕の踵
が温たかい。
僕はずんずん年齢を取って行く。僕は青年になって仕舞った。
僕は一つの手紙を持って居る。愉快な顔が輝いて、僕の心が温たかい。
僕はずんずん年齢を取って行く。僕は壮年になって仕舞った。
僕は可愛い赤坊の声を持って居る。白い頭巾が輝いて、僕の額は温たかい。
僕はずんずん年齢を取って行く。僕は
老人になって仕舞った。
僕は大きい手やら小さい手やらで組れる大きな環をば持って居る。限りない空が輝いて、僕の全身が温たかい。
僕はもう年齢を取らない。
到頭僕は死んで仕舞った。
僕は毎日
種種な祈祷
の声を持って居る。この快活な魂が輝いて、僕の灰は温たかい。
(『正午の果実(増補版)』に収録)
北村は、詩の上では、長い一生を生きたのですね。
|
|
江森国友『「海港」派の青春 〜詩人・北村初雄〜』(以文社) |
北村初雄『正午の果実』。※国立国会図書館デジタルコレクション |
|
|
高三啓輔『鵠沼・東屋旅館物語』(博文館新社) |
志澤政勝 『横浜港ものがたり 〜文学にみる港の姿〜』(有隣堂) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 宇野千代の『色ざんげ』を読む→
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
・ 芥川龍之介の『魔術』を読む→
■ 参考文献:
●『「海港」派の青春 ~詩人・北村初雄~』(江森國友 以文社 平成15年発行)P.3-34、P.113-172 ●『詩人 北村初雄』(阿部宙之介 木犀書房 昭和50年発行)P.142-143 ●「近代詩人百人(別冊太陽)」(平凡社 昭和53年発行)P.82 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.35 ●「北村初雄」(伊藤信吉)、「熊田精華」(村野四郎)、「柳沢 健」(武川忠一)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)P.313、P.396、P.1172 ●「鵠沼地区文化史年表」(鵠沼を語る会)(Site→)
※当ページの最終修正年月日
2024.9.22
この頁の頭に戻る
|