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詩人は燃ゆ(大正15年5月11日、中央亭騒動)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正15年5月11日(1926年。 の晩、「中央亭」(東京のどこか?)で開かれた詩誌「日本詩人」の記念会で、ちょっとした騒ぎがありました。

野口米次郎

会半ばで、長老的存在の野口米次郎よねじろう (50歳)がスピーチで、「日本詩人」で編まれた野口に関する特集で書かれた文はことごとく義務的に書かれたもので、単に「世界的詩人」と祭り上げた(野口はノーベル文学賞受賞を嘱望されていた)、退屈でつまらないものだったと不満をぶちまけたのです。

萩原朔太郎

その場にいた萩原朔太郎(39歳)が書いた「野口米次郎論」のことも、野口は批判しました。朔太郎は、本質を周りに理解されない野口の“孤独”を即座に感じ取って、またそれを吐露する野口の“詩人的敏感性”に感じ入り、すくっと立って、その思いを てら いなく皆に伝えようとしました。野口のことが慕わしくて慕わしくて、朔太郎は、スビーチで野口のことを「先生」「先生」と連発。すると、会場から、

先生とは何だ!
先生という必要はない!

と野次が飛びます。

岡本 潤(24歳)です。岡本はアナキズムに共鳴しており、「先生」とかいった“権威”が大嫌いだったのです。2年前(大正13年)、「文芸戦線」と「文芸時代」が創刊され、文学界をモダニズムが席巻せっけん しつつありました。旧来の文学者を鼻にもかけない自信と傲慢が、若い文学者にあったと思われます。

野口はいたたまれなくなって会場を後にし、会場には重い空気が流れます。

次に爆発したのが、尾崎喜八(34歳)でした。彼も「先生」という言葉を使ったのでしょうか。またもや、

先生とは何だ!
先生という必要はない!

・・・、すると我慢ならなくなった朔太郎は、岡本をしかり飛ばします。それに応じて、岡本朔太郎に接近。

室生犀星

そこで室生犀星(36歳)が登場。「朔太郎危うし」と、椅子を振り廻しながら朔太郎を助けにいった・・・というのが、この騒動のあらましです(「中央亭騒動」という)。

その後のことを朔太郎が書いています。

・・・何か私が不当の暴行でも受けているように見誤り、友人の一大事として決死的に突進して来たのである。昔の室生犀星を知っている僕には、こうした犀星をみても自然であり、深く驚くこともなかったが、彼の純一な人間的本質を知らない多数の会衆には、いかにそれが晴天の霹靂へきれきのように感じられたかと思うと、ひそかに可笑おかしさをこらえることができなかった。既にもうその時には、私の鬱憤うっぷんはすっかり消散しょうさんしてしまった。丁度ちょうど、落雷によって雷雨の晴れた後のように、一度感情が破裂してしまった後だから、胸には何のわだかまりも残って居なかった。そして私が呆然ぼうぜんとして突ったってるまに、人々は早くも室生君を抱き止めてしまって居た。・・・(中略)・・・最後の室生君の一場は、昔の粗野そや な書生的友情が回想されて、取りわけ私にはなつかしかった。その上にも犀星らしい自然のユーモアが感じられ、ふしぎに人々の結ばれた心を解きほごした。それ故に散会する時、だれもが親しい微笑を交わしてあいさつした。私もさっぱりとした気持ちになって、岡本君とも愉快な微笑を交換しながら、軽い歩調で戸外へ出た。戸外には初夏のしっとりした空気が流れていた。無邪気な詩人の会合にふさわしい夜であった。(萩原朔太郎「中央亭騒動事件」より)

考えの違いはあっても、皆、純な気持ちで本質を追求する「詩人」たちではあったのです(「計算高くて狡いヤツ」(そう人のことを近頃は“頭がいい”と呼ぶらしい)はいない)。

続きがあります。

芥川龍之介

後日、この騒動を知った芥川龍之介(34歳)が、犀星に激励(?)の手紙を出しています。

敬愛する室生犀星よ、
椅子をふりまはせ 
椅子をふりまはせ

と。皆、血の気が多いですね(笑)。

朔太郎と犀星と芥川は共に、東京田端の住人でした。朔太郎は「中央亭騒動」の前年(大正14年)11月に鎌倉に越したので、この時はもう田端にいませんでしたが、それでもまだ“田端同盟” といった地縁的連帯感があったかもしれません

大正6年に設立された「詩話会」には、様々な人が集まりましたが、4年後の大正10年3月に象徴派・高踏派的傾向のある北原白秋日夏耿之介、西條八十、三木露風、堀口大学らが脱退、新たに「新詩会」を立ち上げます。詩誌「日本詩人」は、白秋ら脱退の8ヶ月後に残留組が「詩話会」の機関紙として創刊(大正10年。新潮社)。残留組には民衆詩派的傾向(大正デモクラシーの影響、平易な表現、社会性の重視)がありました。「日本詩人」は「中央亭騒動」の半年後の大正15年11月に終刊となりますが(大正時代もその1ヶ月後(大正15年のクリスマス(12/25))に終焉)、それでも大正時代にもっとも長く刊行された詩誌で、詩界に一定の影響力を持ちました。

その後、「中央亭騒動」に象徴されるようにプロレタリア文学(プロレタリア詩)が勃興し、それによって民衆詩派も衰退。そしてプロレタリア文学も当局より弾圧されて影をひそめ、代わりに日本浪曼派が台頭・・・。

当初の「詩話会」が、流派のつまらない小異にこだわらずに、本質追求といった文学の大同の立場に立って、相互理解を図り、その多様性が保たれたなら、一定の影響力が保持でき、昭和前期の満州侵略からアジア太平洋戦争に至る、「非文学的状況」(「国民は国家のためなり」といった没個人的状況)に対する何らかのカウンターになったかもしれません。

ところで、詩って何でしょう?

星野文子『ヨネ・ノグチ 〜夢を追いかけた国際詩人〜』(彩流社) 鮎川信夫『近代詩から現代詩へ 〜明治、大正、昭和の詩人〜 (詩の森文庫)』(思潮社)
星野文子『ヨネ・ノグチ 〜夢を追いかけた国際詩人〜』(彩流社) 鮎川信夫『近代詩から現代詩へ 〜明治、大正、昭和の詩人〜 (詩の森文庫)』(思潮社)
苗村吉昭 『民衆詩派ルネッサンス 実践版 〜一般読者に届く現代詩のための持論〜』(土曜美術社出版販売) 小林真大『詩のトリセツ』(五月書房新社)。編:片岡 力
苗村吉昭『民衆詩派ルネッサンス 実践版 〜一般読者に届く現代詩のための持論〜』(土曜美術社出版販売) 小林真大『詩のトリセツ』(五月書房新社)。編:片岡 力

■ 馬込文学マラソン:
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→

■ 参考文献:
●「中央亭騒動事件」(萩原朔太郎)※『虚無の詩・思想のうた 現代詩篇1(現代詩鑑賞講座 第七巻)』(角川書店 昭和44年発行)P.366-370 ●『萩原朔太郎全集15』(筑摩書房 昭和63年発行)※年譜 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年発行)P.53 ●『切なき思ひを愛す(室生犀星文学アルバム)』(菁柿堂せいしどう 平成24年発行)P.44 ●「田端駅発 創作の歴史」(「東京新聞」平成28年4月26日掲載) ●「日本詩人」(伊藤信吉)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年6刷参照)P.887-888 ●「民衆詩派」(安藤靖彦)コトバンク→●「芥川龍之介句集/続 書簡俳句 附 辞世(やぶちゃん版)」鬼火→) ●「三、民衆派全盛の頃 大正八年~十一年/(七)、月刊詩雑誌『日本詩人』 大正十年」(詩人 白鳥省吾を研究する会)白鳥省吾物語→

※当ページの最終修正年月日
2023.5.11

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