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作家、集いて(昭和46年11月6日、染谷孝哉、馬込図書館で講演する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬込文士村レリーフ」の一部。「大森駅」(東京都大田区大森北一丁目6-16 map→)の中央改札西口(山側)正面の坂道(「天祖神社」脇の石段。ストリートビューで辿れるlink→)の途中にある。ここを上って、“馬込文士村”へLet's Go!

 

染谷孝哉

昭和46年11月6日(1971年。 、当地の「馬込図書館」(東京都大田区中馬込二丁目26-10 map→)で、地域文学の研究家・染谷孝哉(53歳)が、「馬込文学散歩」という演題で講演をしています。

染谷は15年ほど前(昭和30年頃。37歳頃)から日本文学協会の京浜支部ニュース「南風(はえ)」で当地の文学について連載しており、半年前の6月28日(昭和46年)には、それらをまとめた『大田文学地図』を世に問うていました。

『大田文学地図』は、1年前(昭和45年)の母親の死がきっかけになって編まれ、亡母に捧げられていますが、なぜか、この頃(昭和46年前後)、当地の文学に関する本が立て続けに発行されています。

榊山 潤

染谷の『大田文学地図』が発行される1年前(昭和45年)出版された榊山 潤(69歳)の『馬込文士村』は、次のように書き出されています。

 どういう会であったか忘れたが、久しぶりに広津和郎氏に遇った。私が会場の隅にならんだ椅子にかけてタバコを吹かしていると、入口に広津さんの姿が見えた。広津さんは酒を飲まないから、中央の卓のまわりに群がる人たちの間に、割りこむようなことはない。
 せかせか歩いてきて、私に気がつくと、私のとなりの椅子にかけ、馬込はおもしろかったね、と言った。
「馬込があんなにおもしろかったのは、尾崎君がいたせいだね。尾崎君がいなかったら、あんなにおもしろくなかったろうね」
 たぶん広津さんは、私の顔を見て馬込を思い出したのではあるまい。何かで馬込のことを考えていて、私の顔を見ると、たまった水がはけ口を見つけたような気持になったのであろう。広津さんの声に弾みがあった。
 いきなり馬込を持ち出されて、私はいささか面くらい気味だったが、しかし馬込が意識の上にひろがってくるのに、二秒とはかからなかった。 ・・・(榊山 潤『馬込文士村』より)

この「尾崎君」は尾﨑士郎のことで、彼と伴侶の宇野千代とが大正12年、当地に来てから、当地にわんさかと文学畑の人が集まるようになりました。その尾﨑とやはり当地にいた三好達治とが昭和39年に立て続けに死去し、当時の“文士村”的雰囲気を懐かしむ気運となったようです。

榊山の『馬込文士村』と染谷の『大田文学地図』に触発されてか、近藤富枝が、『大田文学地図』の5年後の昭和51年に『馬込文学地図』を出します。 『馬込文士村』は榊山が実際に体験したことが中心に書かれており、 染谷の『大田文学地図』は範囲が大田区全体で、時代の幅もあるので、網羅的ですが一つ一つは詳しくありません。近藤は、“馬込文士村”という地域に限り、時代も尾﨑と宇野が来る大正12年くらいから二・二六事件のある昭和11年頃までに限って、濃密に描いています。

近藤は『馬込文学地図』を出す前にも同じ手法で、『 菊富士 きくふじ ホテル』(昭和49年発行)、『田端文士村』(昭和50年発行)を書いています(合わせて「文壇資料 三部作」という )。先に「榊山の『馬込文士村』と染谷の『大田文学地図』に触発され」と書きましたが、当地(東京都大田区馬込 map→)には「菊富士ホテル」(東京都文京区本郷五丁目5-17 map→)と田端(東京都北区田端 map→)から流れてきた人が何人もいるので、前2作を書いた流れで『馬込文学地図』に至ったとする方が近いかもしれません。

菊富士ホテル」を経由して尾﨑士郎宇野千代広津和郎らが当地に来て、田端を経由して萩原朔太郎、室生犀星らが当地に来ます。

田端にある芥川龍之介の旧居跡。案内板(写真中央)が立っている。“田端文士村は”、大正8年3月、芥川(27歳)が鎌倉から養父母のいる田端に戻ってきたのを機に、犀星(29歳)や朔太郎(32歳)といった作家が集まり、形成された 在りし日の菊富士ホテル。今は石碑しかない(Photo→)。塔状の部分の屋根裏部屋に坂口安吾が逗留していたことがある ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:クレヤン・コム/伊藤野枝年譜 1914年(大正3年)19歳→
田端にある芥川龍之介の旧居跡。案内板(写真中央)が立っている。“田端文士村は”、大正8年3月、芥川(27歳)が鎌倉から養父母のいる田端に戻ってきたのを機に、犀星(29歳)朔太郎(32歳)といった作家が集まり、形成された 在りし日の菊富士ホテル。今は石碑しかないPhoto→。塔状の部分の屋根裏部屋に坂口安吾が逗留していたことがある ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:クレヤン・コム/伊藤野枝年譜 1914年(大正3年)19歳→

“馬込文士村”の作家たちは、あるときは軽井沢に集い(作家がよく集う「つるや旅館」があり、軽井沢に別荘もつ作家も複数名いた)、また、昭和2年頃からは伊豆湯ヶ島にこぞって出かけ(湯ヶ島には川端康成 定宿 じょうやど にしていた 「 湯本館 ゆもとかん 」(静岡県伊豆市湯ケ島1656-1 map→ site)がある)、そこにも一種独特なコミュニティーができます。

「湯本館」の窓より。狩野川(かのがわ)の流れが近い。川端康成が逗留した部屋も保存されている(Photo→) 女性だけのコミュニティーも生まれた。左より、林 芙美子、佐多稲子、吉屋信子、宇野千代。昭和11年東京新宿の吉屋邸にて。※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 〜あの頃、馬込は笑いに充ちていた』(東京都大田区立郷土博物館)原典:日本近代文学館所蔵写真
「湯本館」の窓より。 狩野川かのがわの流れが近い。川端康成が逗留した部屋も保存されているPhoto→ 女性だけのコミュニティーも生まれた。左より、林 芙美子佐多稲子吉屋信子宇野千代。昭和11年東京新宿の吉屋邸にて。※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 〜あの頃、馬込は笑いに充ちていた』(東京都大田区立郷土博物館)原典:日本近代文学館所蔵写真

その後、当地(東京都大田区)の作家たちは何度かの入れ替わりをへて、疎開などの理由で、かなりの人が、鎌倉・鵠沼など湘南方面に流れていきました。小島政二郎、高見 順、今井達夫、川端康成、子母沢 寛、真船 豊、吉屋信子など。

明治の終わり頃から、画家、詩人、作家、作曲家、役者などが集う異分野交流もありました。

吉村祐美『文学者たちの軽井沢(新・軽井沢文学散歩)』(軽井沢新聞社) 『伊豆文学散歩 〜本を片手に伊豆めぐり〜』。発行者:静岡県文化・観光部文化学術局文化政策課(伊豆文学フェスティバル実行委員会)
吉村祐美『文学者たちの軽井沢(新・軽井沢文学散歩)』(軽井沢新聞社) 『伊豆文学散歩 〜本を片手に伊豆めぐり〜』。発行者:静岡県文化・観光部文化学術局文化政策課(伊豆文学フェスティバル実行委員会)
村上 護『阿佐ケ谷文士村』(春陽堂書店)。井伏鱒二に、太宰 治に、小林多喜二に、亀井勝一郎・・・ 宇佐美 承『池袋モンパルナス 〜大正デモクラシーの画家たち〜(集英社文庫)』)。画家たちも集った
村上 護『阿佐ケ谷文士村』(春陽堂書店)。井伏鱒二に、太宰 治に、小林多喜二に、亀井勝一郎・・・ 宇佐美 承『池袋モンパルナス 〜大正デモクラシーの画家たち〜(集英社文庫)』)。画家たちも集った

■ 馬込文学マラソン:
染谷孝哉の『大田文学地図』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
近藤富枝の『馬込文学地図』を読む→
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
小島政二郎の『眼中の人』を読む→
高見 順の『死の淵より』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
子母沢 寛の『勝 海舟』を読む→
真船 豊の『鼬』を読む→
吉屋信子の『花物語』を読む→

■ 参考文献:
●『広津和郎 〜この人との五十年〜』(間宮茂輔 理論社 昭和44年発行)P.82-83 ●「“いま”とのパイプ役果たした人(「馬込文士村」 No.40)」(文:谷口英久)(「産經新聞」平成3年6月11日号に掲載)

※当ページの最終修正年月日
2021.11.6

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