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当地(東京都大田区山王さんのう馬込まごめ)のそこかしこに、文学案内の表示がある。『馬込文士村の作家たち』の著者・野村 裕が当地の文学ブームの火付け役となった*


教師は「勉強せよ」と言うのが商売のようなものだが、はたして、教師自らは勉強しているのだろうか?*

『馬込文士村の作家たち』の著者・野村 裕は、教師でありながら、自らも勉強した。猛勉強と言ってもいい。*

野村は、戦後、当地(東京都大田区)の中学校で教員・教頭・校長をやりながら、約30年間、教え子や地域の人たちと一緒になって、当地にゆかりある文学の研究に取り組み続けたのだ。『馬込文士村の作家たち』を読むと、いろいろと調べ、いろいろと分かってくる面白さ、つまりは勉強の面白さが伝わってくる。野村の教え子たちは「勉強せよ」と言わないでも、かってに勉強したかもしれない。*

『馬込文士村の作家たち』 には作家たちが住んでいた場所が現在の番地表記で載っている。これはありがたい。作家たちが住んだ具体的な場所と、その作家の作品のイメージとが重なってくる面白さといったらない。野村は4歳の時から、戦争の前後に静岡とシンガポールに住んだ時期を除くと、終生当地(東京都大田区馬込)に住んだので、子どもの頃から培われた地理感が大いに役立ったことだろう。*

冒頭で、尾侮m郎の小説『空想部落』を取り上げている。この小説の舞台は「牛追村」という架空の村だが、野村はこの村について次のように考察する。*

・・・彼はその名を牛追村と名づけた。「馬」を「牛」に、「込」を「追」に置きかえて、彼が居住した馬込村を牛追村としたことは想像にかたくない。つまり『空想部落』は、彼・尾侮m郎が馬込村に住んでいた頃、そこに集まり住んだ文士たちとの交友、交渉が織りなす事件や私生活を、小説に構成したものといえよう。・・・(野村 裕『馬込文士村の作家たち』より)*

野村は、『空想部落』の牛追村が馬込村の言い換えであるとし、さらに別のページで、尾浮ェ馬込村で住んだのは現在の番地表記で「東京都大田区南馬込四丁目28-11 Map→」であると特定。尾浮フ『わが青春の町』『荏原郡馬込村』といった作品にこの土地の景観が描きこまれていることも紹介している。*

この場所(「東京都大田区南馬込四丁目28-11」)には、宇野千代も尾浮ニ住んでおり、ここでの生活のことが、宇野の『生きて行く私』にも詳しく書かれている。*

「土地」と「作家」と「作品」が結びついて、読書が広がる。*


『馬込文士村の作家たち』について

野村裕 『馬込文士村の作家たち』

野村 裕の著作。当地(東京都大田区馬込)にゆかりある作家の旧居跡を30年近くかけて巡った経験を元に、*当地での自身の経験も織り交ぜながら、作家の経歴と主な作品を紹介している。 昭和59年3月(野村65歳)、自費出版された。取り上げられているのは、東馬込の北原白秋、南馬込の山本周五郎室生犀星萩原朔太郎川端康成石坂洋次郎稲垣足穂三島由紀夫など32名。数え上げれば100名を越す作家が行き来した当地を、野村は、「昭和文学発祥の地」と考えた。**

北原白秋が住んだ家に住んでいる家族の子どもが馬込東中学校に通っているのを幸いに(野村は馬込東中学校の校長だった)家庭訪問をかねて訪ねたり(笑)、反骨の文士・添田知道が住んだ家があまりにも粗末で朽ちかけているのを見て涙を誘われたりした。家の真ん前が吉田甲太郎の家だったので、吉田の姿は実際に見ている。散歩中の室生犀星の姿もよく見かけたという。*


野村 裕について

少年時代から馬込作家の作品を読む
大正8年生まれ。大正12年1月(4歳)、父親の仕事の都合で、大阪の田辺たなべ Map→から当地(東京都大田区馬込)に越してきた。最初は丘の上の林の中の一軒家に住む。子ども心には、夜になると ふくろうのなく淋しげな土地だった。尾侮m郎や宇野千代が馬込入りして馬込文士村が形成された頃のことだ。*

8ヶ月後の関東大震災を当地で被災、家の壁が瞬時に落ち、家が傾いたが、家族の命に別状がなかった。「北野神社」(東京都大田区南馬込二丁目26-14 Map→)近くの清水正巳(商業研究家。商業雑誌「商店界」主幹)の家の車庫で避難生活を送る(清水は野村の叔父だった)。大正14年(6歳?)、近くに建てられた家に家族で越し、ここが野村の終の住処となったようだ(東京都大田区南馬込二丁目31-9 Map→)。*

4年間「入新井第二小学校」(東京都大田区中央二丁目15-1 Map→ 1歳年上(大正7年生まれ)の池部 良も同時期通っていた?*)に越境通学し、「馬込小学校」(東京都大田区南馬込一丁目34-1 Map→)を卒業。*

父方の祖母が大の映画好きで、誘われて近所の「ミヤコキネマ」「アライキネマ」に通う。*

祖父の机上にあったプーシキンの韻文小説『オネーギン』Amazon→の美しい言葉にひかれ、文学に傾倒。馬込作家の作品も読むようになった。国学院大学を卒業後、静岡県清水中学校に勤務。戦中は軍属の国語教師としてシンガポールに赴任した。**

敗戦後は、しばらくは静岡県立高等女学校に勤務。昭和23年(29歳)、当地に戻り、東京都大田区内の中学校で教鞭をとるようになった。生徒たちと馬込作家について調べるようになり、馬込文士村研究にのめり込む。教頭をへて、昭和40年(46歳)から校長に。昭和50年(56歳)、「馬込東中学校」(東京都大田区南馬込二丁目26-30 Map→)で校長をしている時、文化祭で馬込文士村を紹介する展示を行う。 昭和54年(60歳)、公立学校を退職後、町田学園女子高等学校で教鞭をとり、地元では保護司も務める。*

馬込文士村を広める活動に尽力
昭和58年(64歳)、馬込青年館(現「馬込文化センター」(東京都大田区中馬込三丁目26-3 Map→))で 「馬込文士村について」と題して12回にわたって講演。好評で、翌昭和59年、聴講者が中心になって研究サークル「牛追村歴史と文芸の会」(「牛追村」は尾侮m郎の『空想部落』に登場する村にちなむ。上掲文を参照) が結成され、野村が常任講師となった。その年、『馬込文士村の作家たち』を上梓。 本書で、それぞれの作家が住んだ跡に標識を立てることを訴えた。*

会結成の翌昭和60年、9月11日、結核を再発し急逝する。 66歳だった。墓所は光教寺(東京都大田区中央四丁目35-3 Map→)( )。*

「牛追村歴史と文芸の会」の存続が難しくなるが、会の目的を一部変更して「馬込村文芸の会」として再出発する(昭和61年。野村没後1年)。**

昭和61年より作家の旧居をつなぐ散歩コース「文士村コース」の検討が始まり、野村が訴えた「作家が住んだ跡の標識」と、「馬込村文芸の会」が大田区に依頼した「文士村案内図」の設置が始まり、平成元年に完成す(野村の没後4年)。*

作家の旧居跡に立つ標識の1つ。 これは室生犀星のもの。作家の似顔絵、略歴、関係文書、住んだ期間の事柄を示す年表が記載されている。作家が住んだ場所と同一でない場所に立つものもあるが(近くではある)、野村が望んだ以上のものかもしれない。大田区の宝の1つ*
作家の旧居跡に立つ標識の1つ。 これは室生犀星のもの。作家の似顔絵、略歴、関係文書、住んだ期間の事柄を示す年表が記載されている。作家が住んだ場所と同一でない場所に立つものもあるが(近くではある)、野村が望んだ以上のものかもしれない。大田区の宝の1つ*

野村裕と馬込文学圏

大正12年(4歳。馬込作家の中心的存在だった尾侮m郎宇野千代が当地に来た年)、両親につれられて大阪から当地(東京都大田区)に来る。「馬込小学校」を卒業。 後年、教職に就いて、最後は「(大田区立)馬込東中学校」(東京都大田区南馬込二丁目26-30 map→)の校長を務める。自宅も馬込東中学校の近くで、右斜め向かいに吉田甲子太郎の家があった。『馬込文士村の作家たち』 で、当地にいた頃の吉田に触れている。

馬込文学圏の野村裕関係地図→


参考文献

●『馬込文士村の作家たち』(野村 裕 「馬込文士村を探ねる会」 昭和59年発行)P.3、P.8-11、P.14-16、P.26、P.130、P.179、P.243* ●「“いま”とのパイプ役果たした人(馬込文士村 No.40)」(谷口英久)※「産経新聞( 東京みなみ版)」平成3年6月11日掲載 ●「『馬込村文芸の会十年の歩み』を読む」(城戸 昇)※『わが町あれこれ(第10号)』 (編集:城戸 昇 あれこれ社 平成8年発行)P.12-15* ●『馬込村文芸の会 十年の歩み』(発行者:大澤富三郎 平成6年3月発行)P.13 ●「講演会 「父、野村 裕を語る」」馬込文士村ガイドの会→)* ●「馬込村文芸の会について」馬込文士村へようこそ(大森倶楽部)→)*

※当ページの最終修正年月日
2024.8.21

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