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子どもに質の高い文学を(大正7年7月1日、鈴木三重吉、「赤い鳥」を創刊する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い鳥」創刊号の表紙より(絵:清水良雄) ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「赤い鳥」(復刻版)(日本近代文学館

 

鈴木三重吉

大正7年7月1日(1918年。 鈴木三重吉(36歳)が、児童向けの文芸誌「赤い鳥」を創刊しました。

鈴木が「赤い鳥」で目指したのは、“質の高い児童文学”。 それまでの 「子ども向けだからそれなりに」 という考えから 「子ども向けだからこそ(人生の最初期に出会うものだからこそ)質の高いものを」 との発想の転換がありました。 大正時代の自由主義的、民主的、人間中心主義的な啓蒙運動の中から「児童尊重」 の気運も高まったようです。

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“質の高い文学”とは何でしょう?

何通りもの答えがあるでしょうが、消去法でいえば、少なくとも、「美辞麗句を並べただけのもの」ではなく、「一つの考え(国策とか、教条とか、著者の信条とか)を押し付けてくるもの」でもなく、「受けねらいのもの(お涙頂戴。「感動できる」的)」でもないものといえるでしょうか。

人は千差万別であり、“敵”であっても、それが少数者であっても、差別されている人であっても、犯罪者であっても、そこには当然人間としての経験と心の動きがあり、その千差万別な人間を切り取って見せてくれるのが“質の高い文学”の一大要件ではないでしょうか。だから、「日本が一番」的な、「文明・文化には優劣がない」といった世界が多くの血を流してようやく獲得した最重要の知見に反する書き物は文学に値しない。

また、心の様相も含め、見たことがない世界を見せてくれる、そして、その独自性によって、読者の独自性(孤独性)が救われるような、心躍り、救われる文学・・・、「赤い鳥」がそうであったかは別問題として。

高い理念を掲げた「赤い鳥」は執筆陣にもそうそうたるメンバーを迎え(年齢は創刊時)、森鴎外(56歳)島崎藤村(46歳)芥川龍之介(26歳)有島武郎(40歳)泉 鏡花(44歳)北原白秋(33歳)宇野千代(20歳)高浜虚子(44歳)徳田秋声(46歳)菊池 寛(29歳)西条八十(26歳)谷崎潤一郎(32歳)三木露風(29歳)小島政二郎(24歳)新美南吉(発刊時は4歳)、坪田譲治(28歳)、北川千代(24歳)らが筆をとります。

芥川の『魔術』『蜘蛛の糸』『杜子春』、有島の『一房の葡萄』、 新美の『ごん狐』、北川の『世界同盟』白秋の童謡「からたちの花」、 西条の童謡「かなりや」なども、「赤い鳥」に掲載されたものです。これらの作品には、虚栄心を持つ人、おごる人、犯罪者、堕落者、盗む人、いたずらする人、悲しむ人、本来の特性を喪った人など、様々な人が出てきます。子どもたちはそれらの様々な人たちに物語で出会い、自分にもそれらの人々と同じ心の動きがあるのを発見し、共感(ときには反駁)しながら、心を耕していったことでしょう。

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と、ここまでが表向きの 「赤い鳥」 。

小島政二郎

人に裏があるように、「赤い鳥」にも裏があります。同誌の編集に携わった小島政二郎が後年、自伝小説 『眼中の人』 で、「赤い鳥」と主宰者の鈴木三重吉について、知られざる一面をぶちまけました。

鈴木が喘息で入院して小島が編集を一手に引き受けたときのことです。

・・・ところが、締め切り前後にもう一度行つて見ると、二三の人を除いてあとは全部、
「どうも童話といふやつは、むづかしくつてね。 何しろ生まれてからまだ一度も書いた経験がないので----」
 さういふ返事だつた。 私は途方に暮れた。 が、書けないと ふものはどうにもしやうがなかつた。 と云つて、八人も穴があいては、雑誌にならなかつた。 外の人に頼むと云つても、それからではもう時間がなかつた。
「仕方がありませんから、私が大急ぎで八つ書きませう」
 私は寝てゐる三重吉にさう云ふより外なかつた。
「しかし、名前に困つたな」
寝台に仰向けになりながら、大きな潤んだ目をパチーリ、パチーリさせてゐた三重吉が、不機嫌な語調で、
「もう一度みんなのところを廻つて、事情をよく話してだね、約束不履行の償ひとして、名前を借りることを強引に承諾させて来てくれたまへ」・・・(小島政二郎 『眼中の人』 より)

代作というやつですね。「赤い鳥」掲載の徳田秋声の「手づま使」や泉 鏡花の「あの紫は」あたりは、小島作なのでしょうか?

執筆者の“名前”をありがたがるととんだ恥をかきます。小島を一度も褒めたことのない久米正雄は、小島作の「秋声作品」を褒めちぎったとか。

小島鈴木の酒乱や夫人に対するすさまじい暴力なども『眼中の人』に克明に書きました。作家の間では「小島よりも先に死ぬな」と言葉交わされたそうな、何を書かれるかしれたものじゃないので。 自分のことも人のことも容赦なく書くのが小島文学です。

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そんな裏はありましたが、「赤い鳥」 は、 「赤い鳥運動」 といううねりとなって、大正中期以降の児童文学ブームを作ります。

以後、 「金の船」「童話」「おてんとさん(おてんとさん社刊)」「童街」「児童文学」 といった児童文学(童謡を含む)の専門誌が続々と登場。村岡花子が翻訳した物語を寄稿したことで知られる児童雑誌「小光子」の創刊も大正8年、「赤い鳥」創刊の翌年です。とうぜん、「赤い鳥」を意識していたでしょう。

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山本鼎

当地(東京都大田区山王一丁目)にゆかりある画家の山本 鼎(35歳)は、「赤い鳥」 誌上で自由画の指導を担当。それまでの図画教育は臨画といってお手本の絵を真似て描くのが主流でしたが、山本は“豊富な自然こそが手本”と主張して手本を廃止、図画教育を大きく前進させます。

※この頁に記載された年齢は、 「赤い鳥」 が初行された大正7年7月1日時点のもの

河原和枝 『子ども観の近代 〜『赤い鳥』と「童心」の理想〜 (中公新書)』 『赤い鳥代表作集〈1〉』。鈴木三重吉「ぽッぽのお手帳」、芥川龍之介「くもの糸」「魔術」「杜子春」、有島生馬「ないてほめられた話」、島崎藤村「小さなみやげ話」、菊池 寛「一郎次、二郎次、三郎次」、久米正雄「どろぼう」、小島政二郎「ふえ」、有島武郎「一ふさのぶどう」、加能作次郎「少年と海」、秋田雨雀「白鳥の国」、室生犀星「さびしき魚」ほか
河原和枝 『子ども観の近代 〜『赤い鳥』と「童心」の理想〜 (中公新書)』 赤い鳥代表作集〈1〉』。鈴木三重吉「ぽッぽのお手帳」、芥川龍之介「くもの糸」「魔術」「杜子春」、有島生馬「ないてほめられた話」、島崎藤村「小さなみやげ話」、菊池 寛「一郎次、二郎次、三郎次」、久米正雄「どろぼう」、小島政二郎「ふえ」、有島武郎「一ふさのぶどう」、加能作次郎「少年と海」、秋田雨雀「白鳥の国」、室生犀星「さびしき魚」ほか

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
小島政二郎の『眼中の人』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→

■ 参考文献:
・ 『眼中の人』
 (小島政二郎 文京書房 昭和50年発行) P.108-113

・ 『新潮 日本文学小事典』
 (昭和43年発行 昭和51年6刷参照) P.6 (「赤い鳥」の項)

・ 『詩人 石川善助 そのロマンの系譜』
  (藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行) P.453-456

・ 『アンのゆりかご ~村岡花子の生涯~』
 (村岡恵理 マガジンハウス 平成20年発行)P.140-141、P.330

■ 参考サイト:
ウィキペディア/赤い鳥(平成25年4月20日更新版)→

図工大好き橋本ゼミ/自由画教育の時代→

子どもの本の「小峰書店」/読み物/名作・古典/赤い鳥代表作集→

※当ページの最終修正年月日
2018.7.1

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