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大正10年10月25日(1921年。 柳原白蓮(36歳)が村岡花子(28歳)に手紙を書いています。 ・・・ 当時、白蓮はいわゆる「白蓮事件」のただ中にありました。この手紙の5日前(10月20日)、夫の伊藤 白蓮は大正三美人の一人と謳われた人で、歌人としても有名。また大正天皇の従妹にあたるといった家柄です。かたや、伝右衛門は、学校教育をいっさい受けておらず、労働者からの叩き上げで炭鉱王にまでのし上がった人物。生育歴や境遇や家柄に大きな差があり、年齢も伝右衛門が25も年上です(結婚当初白蓮は25歳、伝右衛門は50歳)。白蓮の兄が貴族院議員で伝右衛門の財産を政治資金としてあてにした節もあり、そんなこんなで、二人の結婚は当初からマスコミで大きく取り上げられてきました。 白蓮が出奔した先の宮崎 伝右衛門の元で経済的にはなに不自由なく暮らしていた白蓮でしたが、出奔後は、宮崎家に莫大な借金があり、また龍介が結核で床に伏したこともあって、一転、貧窮のどん底に落ちました。しかし、彼女は、幸せ一杯、元気一杯に、小説・歌集を出版し、また講演なども積極的に引き受けて、龍介との生活を楽しみます。 村岡とは東洋英和女学校の同窓で当時から親しくしていましたが、白蓮が伝右衛門に嫁いだ後は付き合いが途絶えていました。ところが、この騒ぎが起こる2ヶ月ほど前から、二人は手紙のやりとりを再開。虫の知らせでもあったのか村岡が10年ぶりくらいに白蓮に手紙を出し、白蓮がそれに応えています。 ・・・学校での花ちゃんに別れてから後は全く 10年ぶりの村岡からの一通が白蓮の背中を押したのかもしれません。女学校時代、佐佐木信綱の「竹柏会」に村岡を誘ったのが白蓮で、白蓮が村岡が文学の道に進むきっかけを作ったといえそうです。友と言い合える人たちには、必ずやそういった相互刺激があることでしょう。 後年、村岡はモンゴメリの『ANNE OF GREEN GABLES』 (和訳タイトル『赤毛のアン』)を翻訳します。そのなかで「bosom friend」を「腹心の友」と訳しました。 ・・・‘Oh, Diana,’said Anne at last, clasping her hands and speaking almost in a whisper, ‘do you think-oh, do you think you can like me a little-enough to be my bosom friend?’(『ANNE OF GREEN GABLES』 より) ・・・「おお、ダイアナ。」 この箇所を訳すとき、村岡の脳裏を白蓮がよぎったことでしょう。 村岡は、辻村もと子が、やはり夫の元を去り、小説一筋で生きようとした時、荷物を預かったり、当地(東京都大田区)にアパートをみつけるのを手伝ったりと、世話しています。 石川善助と宮沢賢治は2度ほどしか会っていませんが「腹心の友」だったのでしょう。善助は賢治を敬愛し、賢治も善助を深いレベルで理解していました。善助は昭和7年、当地(東京都大田区)で亡くなりますが、賢治も後を追うようにして翌昭和8年死去。 山本周五郎と添田知道も当地(東京都大田区)でとても親しくしていました。当地も相当空襲にあい、当地の作家もかなり疎開しますが、2人はなぜか終戦まで当地にとどまります。そして、頻繁に行き来し、少ない物資を分け合って助け合いました。昭和19年2月8日、当地で、添田の父親・唖蝉坊を亡くなると、葬儀の手配で周五郎が奔走。周五郎の妻のきよいの病状が思わしくない時は、添田が看病に必要な氷を求めて駆け回りました。昭和20年5月4日、きよいが亡くなると、空襲警報が鳴る中、周五郎の又従弟の秋山青磁(写真家)を含めた3人で桐ヶ谷火葬場(東京都品川区)までリヤカーで引いていきます。 残念ながら、2人は、添田の 広津和郎と志賀直哉はただの雀友(麻雀の相手)くらいと思いきや、広津が資金に困っていると知ると(松川事件で奔走していた頃か)、志賀は理由も聞かずに広津に通帳と印鑑をぽんと預けたそうです。なんという信頼関係でしょう。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考談話: ※当ページの最終修正年月日 |