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※「パブリックドメインの映画(根拠→)」・「全部精神異常あり」(監督:斎藤寅次郎)の一場面を使用。手前でポーズを取っているのが、天才子役と謳われた「突貫小僧」 出典:『あ丶活動大写真 〜グラフ日本映画史〈戦前篇〉〜』(朝日新聞社) 昭和4年12月15日(1929年。 、松竹蒲田撮影所の斎藤寅次郎監督(24歳)の映画「全部精神異常あり」が封切られました。 米国で大ヒットした反戦映画「西部戦線異常なし」の日本上映が決まって宣伝され始めたころで、それをもじったタイトルになっています。浅草で両作が向かい合って上映されたところ、「西部戦線異常なし」を見るために来た客が、間違って「全部精神異常あり」の上映小屋に入ってしまうということもあったとか(笑)。映画の町・浅草の黄金期です。川端康成の小説『浅草紅団』の連載も昭和4年から始まりました。 「全部精神異常あり」で描かれたのは、“全てがあべこべの世界”。 踏切は電車が通過するのを通行者が待つものと決まっていますが、「異常あり」では牛車が通るのを汽車が待ちます。汽車から降りてきた山高帽にフロックコートの紳士が駅前で人力車に近づくと、車夫が座席にでんと座り紳士が車を引く。宿に着くと紳士は働かされて、寝るのは犬小屋。なんと犬が座敷に寝る・・・。まだまだ続いて、宿の主人の息子が車で人をはねてしまいますが、息子は人をはねてしまったショックで死亡、はねられた人はぴんぴんしています。死亡した息子の親(宿屋の主人)に保険金が下りますが、彼はなんと「札束恐怖症」。札束を見て逃げ出す始末。買物すると金がもらえ、雨が止んで開く傘、風呂には服を着て入り、裸で出る・・・。と、ハチャメチャです。が、「“普通の世の中”のおかしさ」もあぶり出しているかもしれませんね。主演は星 光(ひかる)で、その他、突貫小僧(青木富夫)、坂本 武、吉川満子も出ます。 斎藤監督は、蒲田時代、こういった先鋭的な喜劇をずいぶん撮ったようです。 残念ながら「全部精神異常あり」のフィルムは見つからないようです。斎藤監督の蒲田時代の作品はほとんど失われ、発見されているのは「石川 「石川五右衛門の法事」がYouTubeにアップされていました。
斎藤監督の蒲田時代の映画タイトルを拾うと、「全部精神異常あり」もそうですが名作のタイトルをもじった「何が彼女を裸にしたか」(大ヒット映画「何が彼女をそうさせたか」のギャグ)、
斎藤は、明治38年、秋田県生まれ。年に一度の3日間、村に催される活動写真(今の映画)が見たくて見たくて、家の猛反対にあいながらも、巡業の旗持ちを志願したのが、映画との関わり初め。10歳の頃です。その後の斎藤の人生は、まるで彼の映画のように破天荒。大正9年(15歳)から製薬会社の宣伝部で映写技師をやっていましたが、九州出張のおり、映写だけでは物足りず、一念発起して、東京に出てきます。 当時「長崎・東京マラソン」というのがあって、その選手に紛れ込んで、東京まで走って来たというのだから驚きです。そして、当地(東京都大田区)の松竹蒲田撮影所に監督志望で入社。関東大震災のあった大正12年です(斎藤18歳)。撮影所の開所が大正9年なのでその3年後。蒲田撮影所所長の城戸四郎の元で頭角を現します。 撮影所は、昭和11年、蒲田から神奈川県大船に移転しますが、その翌年(昭和12年)、斎藤(32歳)は東宝に移籍します。今までの所長・城戸が社長になってしまい、新しい所長は喜劇にあまり理解を示さなかったようです。 その後も斎藤は喜劇路線を貫き、エノケン(榎本健一。浅草の「カジノ・フォーリー」の創設者の一人)、ロッパ(古川
昭和25年(敗戦後5年)に公開された「東京キッド」(斎藤45歳)は、混乱期の日本人に夢と希望を与えたとされる一本です。13歳の美空ひばりの歌声に引き込まれそうです。挿入歌の「東京キッド」の作詞は当地(東京都大田区)にゆかりある藤浦 洸。川田晴久、堺 駿二(堺 正章さんのお父さん)、エノケン(榎本健一)、アチャコ(花菱アチャコ)、坂本 武も出てきます。 松竹蒲田撮影所を舞台にした映画「キネマの天地」に、異常に明るい監督が出て来ますが、あれが斎藤監督です(映画では内藤監督。演:堺 正章)。 山田洋次監督が「男はつらいよ」シリーズ(第1作の公開は昭和43年)の主人公を寅さん(車 寅次郎)にしたのは、斎藤監督(斎藤寅次郎)へのリスペクトからだったのでしょうが、寅さん人気が高まってきた頃、斎藤は寅次郎から本名の寅二郎に戻しています(昭和47年斎藤67歳)。“寅次郎”を寅さんに譲ったようです。
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