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“言葉を知り、使ってみる(昭和3年6月8日、宮沢賢治、再び上京する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮沢賢治

昭和3年6月8日(1928年。 宮沢賢治(31歳)が、仙台、水戸を経由して上京しています。

賢治は何度か上京しましたが、この時(昭和3年)の上京は、エスペラント語を習うという目標がありました。伊豆大島で療養中の友人伊藤七雄を見舞う目的もあったので13日まではそれに費やし、14日に東京に戻ってからは、盛んに図書館に通っています。図書でエスペラント語を学んだのでしょう。

ラムステット
ラムステット

賢治は大正15年から昭和元年にかけてもチェロを抱えて1ヶ月間ほど上京しましたが(昭和3年の時もおそらくチェロを抱えて上京した)、その時、言語学者のラムステット(当時(初代)駐日フィンランド公使。柳田國男、新村 出、金田一京助、小倉進平、内藤智秀らにも影響を与えた人物)の講演を聴いて感銘を受け、講演後に言葉を交わし、賢治は2つの自著(『春と修羅』『注文の多い料理店』)をラムステットに贈りました(両書はフィンランドに現存し、ラムステットによる書き込みがあるとのこと。ラムステットは賢治の作品読んだ最初のフィンランド人だろう)。ラムステットから「著述にはエスペラントが一番」と言われた賢治はその後エスペラント語を学び、自作のエスペラント語訳を試みるようになります。

ザメンホフ
ザメンホフ

エスペラント語は、明治20年、ポーランドの眼科医・ザメンホフが考案・提唱した国際的な「橋渡し言語」です。多言語地域に育ったザメンホフは、「特定民族の言語でない、習いやすい共通語」を標榜。フランス語や英語が外交に使われてきましたが、それらを母国語にする人たちと、そうでない人たちとの間に圧倒的な言語的格差が生じてしまいます(英語が堪能でない国民は、英語が堪能な国の人に引け目を感じる)。それらを「橋渡し言語」で解消しようとしたのでしょう。この理念に共鳴し、また、自分の作品を世界中に届けたいとの思いから賢治はエスペラント語を志したのでしょう。

二葉亭四迷

日本にエスペラント語が登場するのは、明治33年頃。長崎の海星中学でフランス人教師・ミスレルが初めて日本でエスペラント語を教えたとされます。6年後の明治39年、日本エスペラント協会(現在の同名団体とは成り立ちが違うようだ)が発足。同年(明治39年)、二葉亭四迷(42歳)がエスペラント語の日本初の学習書『世界語』NDL→を著しました。日露戦争前、ロシアが権益を増大させていた頃の中国ハルビンで、二葉亭はエスペラント語を学んだようで(二葉亭はロシア語が堪能で、エスペラント語は最初期にはロシア語で紹介された)、日露戦争後、エスペラント語が世界融和の一助になると考え紹介したのでしょうか。

大杉 栄

同じ頃、東京本郷の習性小学校(私立)、山鹿泰治やまが・たいじ大杉 栄が日本で最初のエスペラントを教える教室を開きました。大杉は明治38年、週刊新聞「直言ちょくげん」(週刊新聞「平民新聞」の後継紙)の第7号に掲載された紹介記事(東京帝国大学史料編纂員だった(のちに教授)黒板勝美の談話が元の記事)でエスペラント語を知り、同年(明治38年。大杉21歳)から翌年(明治39年)にかけてもう教室を開き教え始めています。やることが早いです大杉は「東京外国語学校」卒業後の職業を「エスペラント学校教師」としています。やはり日露戦争終結(明治38年9月5日)直後でしょう。

この頃の平民社(「平民新聞」「直言」の発行元)の“語学熱”は大変なもので、幸徳秋水と西川光二郎は明治38年の刑務所暮らしでフランス語とドイツ語を習得すると意気込み、堺 利彦と石川三四郎はドイツ語を志し、松岡文子(後に西川夫人)と延岡為子のべおか・ためこ (後に夫人)は英語を志し、大杉にあっては“語学の天才”で、学生時代にフランス語をマスターし、前述のように、卒業後は「エスペラント学校教師」を肩書きとし、当局からの弾圧で刑務所に入るたびに新たに外国語をマスターすることを自分に課して「一犯一語」と豪語、「いつか日本語、フランス語、英語、エスペラント語、スペイン語、イタリア語、ロシア語など6〜7ヶ国語で どもるだろう」と周りでささやかれました(大杉は極度の吃音症きつおんしょう だった。エンゲルスや尾﨑士郎の吃音も有名)。言葉を学ぶことは、その言葉を産んだ土壌・人々・文化を理解することでもあり、全ての人(日本国内だけでなく世界の全ての人々)の人権尊重・平等成就を願った彼らが、他国の言語に関心を寄せるのは自然なことだったでしょう。

英語学習を絶対視せず、日本人がおろそかにしている国々(日本以外のアジア諸国、イスラム圏の国々など)や少数民族の言語に目を向けてみてはどうでしょう。人とは違った“自分が進む道”が見つかるかもしれません。

特にエスペラント語は、言語格差を解消する道(それでもヨーロッパ由来の言語には偏っている?)、全世界の人々がコミュニケートできる道(エスペラント語で書けば世界各国の人に読んでもらえる可能性が)を示しており、興味深いです。学習書がたくさん出版されているし、ネットに動画もアップされているので独習できます。

●『エスペラント語《CD付》』(白水社)Amazon→
日本エスペラント協会のエスペラント講座→
●エスペラント語で書かれた『エスペラント対訳 宮沢賢治童話集』Amazon→(日本エスペラント図書刊行会)など

今日からエスペラント語をかじってみてはどうでしょう。それなりに使えるようになったら、英検1級などを取るより、ポリシーあるし、独自性あるし、ずっとカッコいいよね !?

人々

茨木のり子は夫を亡くした翌年(昭和51年。50歳頃)から、ハングル(韓国語)を学び始めています。茨木が訳詞集『韓国現代詩選』Amazon→を上梓したのはその15年後(平成3年)のこと。様々な人が様々な言語を学び、それゆえに、私たちは様々な言語で書かれた様々な文学に接することができます。

“音楽という世界言語”を携えて世界中を飛び回っている人たちは、3ヶ国語以上使いこなせる人がけっこういるようです。ヴァイオリニストの庄司紗矢香さんは、日本語、英語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、フランス語の6ヶ国語ができるそうです。

イタリア人が、急に、「フジヤマ、キョウト、トキヨ・・・」と彼が知っている日本に関係ある単語を列挙し始めたことがありました。そんなことでも嬉しいし、心が通じ合えるんだなと思いました。

佐藤竜一『世界の作家 宮沢賢治 〜エスペラントとイーハトーブ〜』(彩流社) 大類善啓『エスペラント〜分断された世界を繋ぐ〜Homaranismo』(批評社)
佐藤竜一『世界の作家 宮沢賢治 〜エスペラントとイーハトーブ〜』(彩流社) 大類善啓おおるい・よしひろ『エスペラント〜分断された世界を繋ぐ〜Homaranismo』(批評社)
茨木のり子『ハングルへの旅 (朝日文庫) 』 宮本雅行『はじめてのアラビア語 (講談社現代新書) 』
茨木のり子『ハングルへの旅 (朝日文庫) 』 宮本雅行『はじめてのアラビア語 (講談社現代新書) 』

■ 馬込文学マラソン:
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→

■ 参考文献:
●『嬉遊曲、鳴りやまず 〜斎藤秀雄の生涯〜(新潮文庫)』(中丸美繪 平成14年発行)P.114-116 ●「宮沢賢治 評伝」「宮沢賢治 略年譜」(天沢退二郎)※『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.68-69、P.108 ●「エスペラント」(泉 幸男)コトバンク→※『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)に収録 ●「二葉亭四迷」(中村光夫)※『新潮 日本文学小事典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷参照)P.1000 ●松岡正剛の千夜千冊/『大杉 栄自叙伝』site→ ● 『パンとペン』(社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い)(黒岩比佐子 講談社 平成22年発行)P.20、P.138-139 ●「庄司紗矢香とさだまさし」(テレビ朝日)キャンディーちゃんの題名日記→

※当ページの最終修正年月日
2024.6.7

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