{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

あそぶ(昭和24年6月6日付の芦田 均の日記より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芦田均

昭和24年6月6日(1949年。 芦田 均(61歳)が日記に次のように書いています。

昨日買った花鉢が気になって朝の間に花壇へ下そうと試みたが、時間がなくて二、三の鉢だけを下した。矢張り草花は賑やかで人為的の臭味がなくていゝ。鉢植の植木は南画であり、草花は新画の趣である。・・・(芦田 均の昭和24年6月6日付の日記より

同じ日の日記の後ろの方には「わずかの時間を利用して花鉢から孔雀草くじゃくそうなどを花壇に下した」ともあります。寸暇を惜しんで庭仕事を楽しんだのですね。

昭和24年といったら芦田が首相に就任した昭和23年の翌年。GHQの民政局(GS)と参謀第二部(G2)の勢力争いに巻き込まれて政権の座を追われた芦田でしたが(「昭電疑獄」)、その後も、リベラル勢力を取り込んだ中道政治を実現すべく奔走していました。そんな多忙な日々の中にあっても、政治家の業務と直接関係ないこと、いわば「あそび」にも時間を割いたのですね。

芦田の日記には、「旅から帰った」「外国人や学生と話した(特に要人の外国人・学生とかではなく)」「よく休息した」「子どもと遊んだ」「将棋を指した」「著作の打ち合わせをした」「ゴルフをした」「草花を購入した」「展覧会を見に行った」「手紙を書いた」「本を読んだ」「映画を見た」・・・といった記述が頻繁にあります。膨大な日記を残したのも「あそび」(本業とは別の活動という意味で)を大切にした証でしょう。

志賀直哉

大正11年7月27日、芥川龍之介(30歳)が、志賀直哉(39歳)の家(千葉県 我孫子あびこみどり 二丁目7 Map→)を訪れ、志賀に訊ねたのは、いかに「書かないでいられるか」(いかにすれば「あそぶ」ことができるか)でした。芥川は前年(大正10年)の4ヵ月に及ぶ中国の旅の後、健康が優れませんでしたが、相変わらず執筆に追われていました。かたや、志賀には「沈黙の3年間」というのがありました。この間、志賀は小説を発表していません。志賀の答えはあっさりしており、

・・・それは誰にでも来る事ゆゑ、一々に受けなくてもいいだろう、冬眠してゐるやうな気持で一年でも二年でも書かずにゐたらどうです、と云つた。 私の経験からいへば、それで再び書くやうになつた・・・(志賀直哉『沓掛にて ~芥川君のこと~』より)

といったもの。芥川は「さういふ結構な御身分ではないから」と苦笑するしかありませんでした。

でも、芥川とてその気になれば何年間かぐらいは、書かないでいることができたかもしれません。別の仕事で食いつなぐことだってできます。宇野浩二が評したように芥川は限りなく“いい人”で、周り(家族・出版業界・読者)の期待に背くことができなかったのでしょう。

志賀の「沈黙の3年間」は、「白樺」の大正3年4月号に短編を発表したのを最後に(31歳)、大正6年(34歳)に発表を再開するまでの期間です。沈黙期間に入る前、志賀は、『を盗む話』の他、『剃刀かみそり』『にご った頭』といった、自分の中のドロドロを吐き出し切るかのような作品を書いています。それこそ一か八かの小説家生命をかけた真剣勝負。それを戦い抜いて、志賀は休息期間に入ったのでした。沈黙期間は、ボート遊びや釣り、水泳など、ともかく太陽の下、体を動かして「健全にならなくてはいかぬ」志賀直哉『稲村雑談』より)との思いでした。結婚したり、転居したり、父の戸籍から抜けて一家を構えたりもしています。長女が死去するという悲しい出来事もありました。

松江の家に近くにあった堀で釣りをする志賀 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』 赤城の山小屋に住んだ頃、近くの大沼で泳いだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』
松江の家の近くにあった堀で釣りをする志賀 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』 赤城の山小屋に住んだ頃、近くの大沼で泳いだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』

志賀は、大正6年になって(34歳)、推敲に推敲を重ねた『城の崎にて』、夏目漱石に捧げた『佐々木の場合』、伊達騒動を背景にした『赤西蠣太』父との和解を契機に書き切った『和解』、その他、『好人物の夫婦」などの佳作・傑作を連発。翌大正7年には、これらをまとめて『夜の光』を発行(この作品集は若い川端康成にも大きな影響を与えた)、志賀の文名は不動のものとなりました。志賀の場合、「あそび」の期間が再起のための大切な節目になったようです。

尾崎士郎 宇野千代

尾﨑士郎と宇野千代が当地(東京都大田区)入りしたことで形成された“馬込文士村”で、作家たちは、いつ仕事してんだ?といぶかしくなるほど、よく遊んでいます。

尾﨑宇野宅、カフェ、風呂屋(?)、歩きながらの“ダベリング”はもとより、尾﨑・宇野宅、萩原朔太郎宅、衣巻省三宅、ホールなどでダンスにも耽り、麻雀、将棋、囲碁、花札もよくやりました。軽井沢に集うこともあれば湯ヶ島に集うことも絵を描く者もいれば写真にこる者、釣りをよくする者もいました。やはり、いつ働いたんでしょう?(笑)

“馬込文士村”の時代は、大正12年頃から昭和4年頃までの6〜7年ほどです。この期間は彼らにとって「あそび」の期間だったのかもしれません。その後、彼らは散り散りになりますが、それぞれが、ユニークな活動を展開していきます。

複数の活動を、同時に、あるいは、ある周期でして、何が本業で何が「あそび」(本業でない活動)なんだか分からないような人もいます。自分の多面性に気づき、それを発現させつつ、上手いこと「人生のバランス」をとったのかもしれません。

禅やヨガなどで取り入れられる瞑想は、頭を空っぽにして、意図的に頭の中に「あそび」を作るテクニックかもしれません。負荷の少ない有酸素運動を長時間続けていると訪れるトランス状態(例えばランニングハイなど)も、野っ原で日がなボケーとするのも、案外、有用かも。

三年寝太郎のように、ボケーとしていると、自分が本当にしたいこと、自分が必要とされていることに、はたと気づくかもしれません(日々何かに追われていたら気付きようがない)。その時は、すぐ動く。

群 ようこ『しない。 (集英社文庫)』。子どもの頃から「すべきこと」に満ち満ちた社会。「しない」ことを選択肢の1つにすることで、楽に、広がる世界 ネルケ無方『迷える者の禅修行 〜ドイツ人住職が見た日本仏教〜 (新潮新書)』。動かない(座禅する)ことの意味は、どこにあるか?
群 ようこ『しない。 (集英社文庫)』。子どもの頃から「すべきこと」に満ち満ちた社会。「しない」ことを選択肢の1つにすることで、楽に、広がる世界 ネルケ無方むほう『迷える者の禅修行 〜ドイツ人住職が見た日本仏教〜 (新潮新書)』。動かない(座禅する)ことの意味は、どこにあるか?
エリ・H・ラディンガー『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』(築地書館)。訳:シドラ 房子 「ビッグ・ウェンズデー」。世界最大級の大波にチャレンジすることで彼らは何を掴んだか。監督:ジョン・ミリアス
エリ・H・ラディンガー『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』(築地書館)。訳:シドラ 房子 「ビッグ・ウェンズデー」。世界最大級の大波にチャレンジすることで彼らは何をつかんだか。監督:ジョン・ミリアス

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→

■ 参考文献:
●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年発行2刷)P.68-69 ●『昭和文学作家史(別冊1億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.77 ●『志賀直哉(上)(岩波新書)』(本多秋五 平成2年発行)P171-187 ●「評伝」「略年譜」(紅野敏郎こうの・としろう)※『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.37-39 ●『児を盗む話』『剃刀』『濁った頭』『范の犯罪』(志賀直哉)※「清兵衛と瓢箪・網走まで(新潮文庫)」(昭和43年初版発行 昭和52年発行17刷)に収録

※当ページの最終修正年月日
2024.6.6

この頁の頭に戻る