|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
昭和53年6月6日(1978年。 北園克衛(75歳)が、肺がんで亡くなりました。 北園は、抽象絵画が刻々と変化していくような謎めいた詩を書き、また、シンプルでモダンなデザインを残し、詩人、デザイナーとして有名ですが、彼の名刺には、詩人とも、デザイナーともありませんでした。書かれていたのは、ただ、ライブラリアン(図書館員)。北園は、昭和10年(33歳)、「日本歯科大学」(東京都千代田区富士見一丁目9-20 map→)の図書館に就職し、没年まで勤め上げています。図書館長だったこともありました。業界や時代の流行や要請に流されることなく、読者にも一切こびることなく、我が道を行けたのは、詩やデザインを食っていくための手段にしなかったからかもしれません。 複数の仕事に携わっている場合、どれが本業で、どれが副業かを決めるのは難しいし、無意味かもしれません。詩だけで食っていくのは相当厳しいでしょうから(北原白秋ですら詩歌だけでは厳しかったようだし、室生犀星も詩だけでなく小説も書いた)、北園の場合、安定収入を得られたと思われる図書館勤務が本業と言って言えなくもありません。 しかし、安定収入があるからとてそちらが絶対に本業とは言えないでしょう。意識の問題があります。詩人・童話作家として知られる宮沢賢治ですが、生前、それらから収入を得ることはほとんどなかったでしょうし、さらには、賢治の場合、意識としては、詩人・童話作家ですらなかったようなのです。彼は自分のことを「サイエンティスト」として認めてもらいたいと草野心平あての手紙に書いています。また、賢治にとっての童話創作は、「法華文学ノ創作」であり、つまりは、信仰告白であり、布教だったようです。 秦 豊吉は当地(東京都大田区山王一丁目)に住んだ頃(昭和3〜4年頃。36歳〜37歳頃)、三菱商事の社員でした。翻訳も出がけており(反戦小説のベストセラー・ レマルクの 『西部戦線異状なし』の日本語訳など)、三菱商事の仕事を終えて当地の自宅に戻ると、簡単な食事をとってとりあえず就寝。深夜に起き出して、ねじり鉢巻きに、握り飯片手に朝まで原稿用紙に向い、次の朝、また出勤、という“殺人的スケジュール”をこなしたようです。 さすがに長くは続かず昭和8年(41歳)には、三菱商事を辞めています。 芥川龍之介は帝大在学中から小説を書いていましたが、卒業後5ヶ月した大正5年12月(24歳)、「海軍機関学校」(現在、三笠公園に隣接して建つ「私立横須賀学院高等学校」(神奈川県横須賀市稲岡町82 map→)の場所にあった)の英語の嘱託教師となっています。以後、2年ちょっと、執筆と教師家業の二足のワラジをはきました。授業は週12時間ほどでしたが、完璧主義の芥川ですから、授業の準備にどれほどの時間を費やしたことか。小説の方も大正7年(26歳)から「毎日新聞」に『地獄変』を連載、『蜘蛛の糸』『鼻』『奉教人の死』などもその頃書いています。 芥川の『永久に不愉快な二重生活』(青空文庫→)という一文に「職業として私は英語を教へてゐる」とあるので、教師の方を(安定収入がある方を)本業と考えたのでしょうか。 三島由紀夫も大学卒業後、大蔵省銀行局国民貯蓄課に就職しますが(昭和22年12月。22歳)、彼の文才を周りが放っておくわけもなく、また三島も潔い人なので、9ヶ月ほどでやめています。 書斎を出れば、違ったモチーフに出会えるでしょうが、体は一つ、相当厳しいですね。その点、次の人たちは、複数の仕事を長期間にわたり、かなり上手くこなしたようです。 石坂洋次郎は15年近くも女学校・旧制中学校(教え子に「むのたけじ」がいる)の教師をしながら書いていたし、井上 靖も15年間くらい大阪毎日新聞社に務めながら書いています。 僧侶で執筆されている方も結構います。瀬戸内寂聴さんは天台宗の僧侶ですし、寂聴さんを得度に導いたのも“毒舌和尚”の お医者さんで物書きも多いですね。アララギ派(写実を重んじる短歌の一派)の重鎮・斎藤
ゲーテや山本有三のように、一時期は作家に集中し、一時期は政治家に集中と、上手く切り替えた人もいます。ゲーテは自然科学(色彩論など)でも重要な業績を残したようです。 あと、アーティストの池田 染谷孝哉は区役所の臨時職員をしながら書いていたし、城 昌幸はミステリー雑誌「宝石」の創刊者であり後には発行元の宝石社の社長もしています。小関智弘さんは51年間、旋盤工をしながら書いておられました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考サイト: ※当ページの最終修正年月日 |