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昭和14年4月7日(1939年。
、片山広子(61歳)が、 ・・・御あいさつもいたさず中途で失礼いたしましたのは何といふわがままな物のわからぬ人間と恐縮いたしております。自分のみぐるしいかたちを一度の写真にものこしたくないと思ひましたのはもうずつとむかしの事で今更のとしになつてまでにげかくれいたしませんでもよろしいのでございますが、どうした事かやつぱり長いとしつきのくせが出まして失礼いたしました・・・ 何かの会合があってその記念の集合写真の段になって挨拶もしないでその場を去った非礼を詫びています。 片山の写真嫌いは徹底しており、家族の写真はたくさんあるのに、ほとんど片山は写っていません。昭和6年(片山53歳)に発表された写真が、26年後の昭和32年(片山79歳)に亡くなった時の遺影に使われています。 片山はなぜそんなに写真を嫌ったのでしょう。上の手紙には「自分のみぐるしいかたちを一度の写真にものこしたくない」とありますが、片山の評伝を書いた
「写真」という言葉は、紀元400年代から中国の文献に見られ、写実的な肖像画を指しました。日本にも伝わって、1300年ほども経過した1700年代半ば(江戸時代中期)になってようやく肖像画に限らずリアルな絵画全般を指すようになるようです。司馬江漢はオランダから伝来した「写真鏡」(「カメラ・オブスキュラ」)という写生補助装置を自作し、リアルな絵を描きました。 「カメラ・オブスキュラ」とは、密閉された内部が真っ暗な箱の一点に穴を開け(または一箇所にレンズを取り付け)、外部の様子の天地左右逆の像を箱内に投影させるもので、さらに鏡に写して反転像を元に戻し、その像をなぞればリアルな形を得ることができました。フェルメールも使用したとの説があります。この原理で得た像を感光性のある板や紙に定着させたものがいわゆる「写真」です。
日本人で最初に写真に撮られたのは、嘉永3年(1850年)に遠州灘で遭難した播磨の樽廻船「栄力丸」の乗組員たちです。2ヶ月間ほど漂流したあと、日本領の東端・南鳥島付近で、米国の商船に救助され、翌年(1851年)にサンフランシスコの写真館で撮影されました。最初写真からまだ四半世紀ほどですが、クオリティが驚くほど向上しています(参考サイト:CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)/永力丸乗組員5人の写真→)。
その6年後の安政4年(1857年)、薩摩藩の蘭学者が撮影した島津 カメラが急速に普及するのはライカなど小型で高性能のカメラが作られてからでしょうが(ライカの市販1号機は大正14年(1925年)販売)、萩原朔太郎は、それよりも20年以上も前の明治35年(1902年。朔太郎15歳)にフランス製の「ステレオカメラ」(双眼鏡のようにレンズが2つあり、双方から同時に撮影して立体感を出す)を入手し盛んに撮影しています。当地(東京都大田区)を撮ったものもあります(作品1(「品鶴線」(東京都品川と神奈川県鶴見を結んだ鉄道。現在はJR横須賀線が走る)の線路を歩く子ら。うち一人は娘の萩原葉子)→ 作品2(東京都大田区馬込あたり)→)。 ・・・記録写真のメモリィを作る 当地には、片山広子という大の写真嫌いの文学者と、萩原朔太郎という大の写真好きの文学者いたのですね。 ドビュッシーの紹介者として知られる大田黒元雄と写真との関わりも深いです。大正10年には福原信三(後の資生堂社長)らと写真芸術社を設立し、同人誌「写真芸術」を発行しました。朔太郎が写真で詩情(郷愁)を表そうとしたように、大田黒は写真に音楽の形式を応用しようしています。1枚の写真を主題として、その変奏(バリエーション)としてのショットを重ねました(作品1→ 作品2→)。 ・・・平凡のうちに非凡を発見する事、
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |