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大田黒元雄とドビュッシー ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典: 『大田黒元雄の足跡 ~西洋音楽への水先案内人~』(杉並区立郷土博物館) ウィキペディア/ドビュッシー(平成26年10月31日更新版)→ 大正4年12月18日(1915年。 当地(東京都大田区山王一丁目11 map→)の大田黒元雄(22歳)の家で、サロン・コンサート「ピアノの夕」(第1回「ドビュッシイの夕」)が開かれました。
集ったのは、野村光一(20歳。のちの音楽評論家)、堀内敬三(18歳。のちに松竹蒲田撮影所音楽部長。「蒲田行進曲」に歌詞をつけた。ラジオ番組 「音楽の泉」の人気者。音楽之友社を設立)、菅原
コンサート前半は、グリーグ、フォーレ、ドビュッシーを堀内が演奏し、ドビュッシー、イリンスキーを野村が演奏、後半は大田黒によって、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲(ピアノ・ソロ版)」、「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」などが演奏されました。このようにまとまった形でドビュッシーが演奏されたのは、日本では初めてではないでしょうか? 当日のプログラムのデザインを担当したのが、長谷川潔(24歳)です。彼も当時、当地(東京都品川区大井六丁目。後に東京都大田区山王一丁目)にいました。コンサートの内容にちなんで「牧神の午後」をモチーフにした版画で表紙を飾っています。長谷川は以後も、「ピアノの夕」のプログラムを担当しています。
大田黒元雄は、日本の水力発電の先駆者・大田黒重五郎(現・東芝の育ての親。二葉亭四迷の『浮雲』のモデル)の息子です。最初は音楽を目指したわけでなく、大正元年から大正3年(19歳から21歳)までロンドン大学に留学し、その間、クラシック音楽のコンサートに足しげく通って西洋音楽に詳しくなったようです。帰国後は、山野楽器(東京都中央区銀座四丁目5-6 map→。当時は松本楽器)の依頼で『バッハからシューンベルヒ』を書いて評判になり、彼のまわりに音楽家志望の若者が集るようになったようです。 そのコミュニティの中で、日本であまり知られていないフランスやロシアの音楽をとりあげた演奏会を開こうじゃないかとの声が上がり、「ピアノの夕」は催されたようです。当時の日本のクラシック音楽界は(今もかなりそう?)、ドイツ・オーストリア音楽一辺倒で、それ以外の音楽は認めないといった風潮があったようです。大田黒はアカデミックな音楽学校を出てないので、反対に、他の国の音楽にも開かれた感性を持ち得たのかもしれません。 この頃はまだ、ドビュッシーは健在で(3年後の大正7年、55歳で死去)。大田黒らは、同時代の「現代音楽」の作曲家を取り上げたことになります。
1年後の大正5年12月9日の「ピアノの夕」には、ベルリンの大立芸術アカデミーの作曲科でブルッフなどに4年間学んで帰国した山田耕筰(30歳)も来ています。専門の音楽教育を受けた山田からすると彼らのコンサートは「勇敢な企て」に見えたようで、当日の大田黒のことを皮肉まじりに次のように活写しています。 ・・・左手をパンツのかくしに投げ込んで、何ものかを手探りでもする様に、左の方を傾けて居た同君は同君の容姿には極めて不釣合な老人めいた調子で、 山田は一日の大半を練習にあてるプロの世界をもう見て知っていたでしょうから、彼らのコンサートはお遊びに見えたかもしれません。 「勇敢な企て」だったかもしれませんが(「勇敢な企て」だったからこそ)、彼らの活動と交流が、日本のクラシック音楽に新たな風を吹かせたことも確かでしょう。のちにこのグループを中心に、日本で最初の音楽評論雑誌「音楽と文学」が発行されます。 「ピアノの夕」は、2年後の大正6年までにおよそ10回催されます。ドビュッシー以外にも、ラヴェル、サティーなどの近代フランス音楽をどしどし紹介していきました。 プログラムのデザインを担当した長谷川 潔は、翌大正7年、フランスに向けて(米国経由)離日。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |