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昭和26年8月20日(1951年。
吉屋信子(55歳)の小説『 「兄」と「弟」が出てきます。「兄」には知的な遅れがあり、安宅家の元執事の娘の国子が彼の妻になって面倒をみています。「厚木飛行場」(元は日本海軍の航空基地。敗戦後、米海軍の基地となる。神奈川県綾瀬市
かたや「弟」は、功利的観念のかたまりのような人です。事業に失敗した「弟」が安宅養豚場に居候するようになって、安宅家ににわかに波乱が生じます。功利第一の「弟」には、「兄」や実家の執事の娘を尊重する気などさらさらなく、「兄」をたぶらかして利用しようとします。 こう書くと、吉屋がどちらを“理想の男性”にしたか分かってしまいますね。そうなのです。しかし、それを正面きって世に問うとなると、当時ではまだ勇気が必要だったようです。吉屋の最大の理解者であり、秘書であり伴侶でもあった
しかし、吉屋は、信念をもって書き続けます。当時の吉屋の日記には「人生のたそがれによき仕事残すべし」の一文があります。そして 「吉屋信子の最高傑作」( 石坂洋次郎(57歳)が昭和32年12月から「読売新聞」に連載した『陽のあたる坂道』にも対照的な兄弟が出てきます。「兄」は医大に通う秀才で礼儀正しい青年で、「弟」は妹の家庭教師の女性の胸を「ぼくの憲法!」と言って触ってしまうような型やぶれな“セクハラ男”ですが、物語が進むうちに、「兄」の冷酷さと、「弟」の優しさが際立ってきます。 大正15年、尾﨑士郎(28歳)は、小説『三等郵便局』(『尾﨑士郎全集〈第6巻〉』に収録 Amazon→)に、自身の「兄」について書きました。「兄」は父亡き後、地元(愛知県横須賀村。現・西尾市 map→)の郵便局長を引き継いでいましたが、8年前の大正7年(尾﨑20歳)、ピストルで自死しています。郵便局長を引き継いで2年後のことです。地元の新聞は、芸者遊びが好きな「兄」が公金を使い込み、それが発覚して自死したとし、 「蕩児の自殺」 (「新愛知」)と書きました。しかし、公金の使い込みは父も行っており、「兄」はむしろそれを諌めていたのです。村一番の旦那だった父は責められず、「兄」だけがその責を負って死んでいったと尾﨑は考えました。父への反感と、「兄」への共感があります。 ・・・兄よ、──あなたが深い土の底に埋めて置いた筈のあなたの犯罪は、あなたの死後二日を出でずして堀り返えされ、明るみへ、さらけ出されてしまったのだ。しかし、兄よ、それにもかかわらず、あなたの計画は見事に功を奏した。何故なら、誰もあなたの犯罪のために父を疑ぐる者は無いであろうから。あなたがあなたの犯罪について、何事の説明も残さないで、いや、少しの暗示すらも与えようとしないで死んでいったことのために、わたしたち一族の前途には再び明るい光が射しはじめたのである。・・・(尾﨑士郎『三等郵便局』より) 「兄」は家族の犠牲になったのだと。尾﨑は幼い頃、文学好きのその「兄」の本箱に並んでいた本で、“文学”に出会っています。 徳富蘇峰と徳冨蘆花の兄弟は年を経るごとに乖離していった感があります(絶交状態も長かった)。でもこの兄弟、それぞれ違う時期にトルストイに面会しています。積極性は共通してますね。
共に当地(東京都大田区)に住み、兄は彫刻家として、弟は詩人・デザイナーとしてユニークな仕事を残したといえば、橋本平八・北園克衛兄弟。 当地(東京都大田区)の本門寺にお墓がある「狩野三兄弟」も、同じ狩野派の画家であっても、それぞれ個性的な生き方をしています。 とはいえ、世界で一番有名なのは、なんといってもライト兄弟でしょうか?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |