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橋本平八の天女(左)と佐藤玄々の天女(右) 昭和35年4月19日(1960年。
日本橋三越本店(東京都中央区日本橋
佐藤が三越と契約したのは9年まえの昭和26年(佐藤62歳)。京都の妙心寺大心院(京都府京都市右京区花園妙心寺町57 Map→)の庭に仮設のアトリエを建て制作に入りました。3年後(昭和29年)に原寸大の模型ができますが、その時点では6メートほどの高さでしたが、さらに3年すると10mを突破、アトリエも大改造が必要になりました。中央の天女から制作に入り、上下左右に装飾部が広がっていったようです。最初に全体の大きさを定めないのは、松本キミ子さんが編み出した作画法「キミ子方式」を思わせます。 佐藤の故郷は福島県相馬市中野(Map→)です。海への思いが深かったのでしょう。福島の支援者にカスべ(エイ)、ホッキ貝を送ってもらい、上下左右の装飾部の造形の参考にしたそうです。「まごころ像」の前に立ってば、「福島の海」が聞こえるでしょうか。 昭和20年5月24日から翌25日にかけて、当地(東京都大田区馬込)を襲った空襲で、佐藤はアトリエと住居を全焼、多くの作品を失いました。心血を注いだ作品を一挙に失う絶望はいかばかりか。それだけに、「まごころ像」へかけた思いは尋常でなかったと想像されます。除幕式の3年後の昭和38年、佐藤は、「まごころ像」に全生命力を捧げたかのように、その制作場所の大心院で息を引き取りました。75歳。 完成が7年も遅れたことに佐藤とそのスタッフ(延べ10万人が制作に携わった)の苦労がしのばれますが、三越もよく待ったものです。佐藤の才能を信じ、それを支えました、「天下の三越」の威信をかけて。 「芸術は万人のもの」との考えに立つと、「まごころ像」は理想的です。 入場料なぞ払わないで、そこに行けば、いつでも偉大な芸術に会うことができるのですから。下から見上げるもよし、2階、3階、4階から眺めるもよし、5階から見下ろすもよし。それぞれ違った表情を見せてくれることでしょう。
もう一つ、佐藤の大作を、皇居のお堀端で、無料で鑑賞できます。「
佐藤の重要な功績の一つは、彫刻家・橋本平八(明治30年〜昭和10年)を育てたこと。橋本は、大正9年から大正13年までの5年間、当地(東京都大田区馬込)の佐藤のアトリエに住み込み、佐藤から彫刻を学びました。佐藤も橋本から影響を受けたようです。 橋本は北園克衛の実兄です。橋本は大正13年に当地を去って郷里の三重に戻りましたが、代わりに、北園が、昭和9年から、佐藤のアトリエのすぐ近くに住み始めています。佐藤と北園も何らかの交流があったのでしょうか?
橋本が住み込んだ期間の大正11年10月より1年9ヶ月間ほど、佐藤(34-35歳)は、美術院の奨学金で、パリのブールデルの美術研究所に通い、ジャコメッティーとも交遊しています。 ところで、人類はいつ頃から像を作っているのでしょう。 発見されている中で一番古い彫刻は、3万年ほど前(旧石器時代。日本では無土器時代とも)、狩猟民が洞窟の壁に刻んだレリーフ状(浮き彫り状)の彫刻で、フランスの「アングル・シュル・ラングラン」(Map→ 参考site→)のものなどが知られています。野生の動物と一緒に、やはり(佐藤や橋本の「天女像」同様)女性が彫り込まれています。多産や豊穣を願う気持ちが形になったものなのでしょう。少しすると立体的な彫刻も現れますが、やはり女性を象ったものが多く見られるようです(「ヴィレンドルフのヴィーナス」など)。西岡秀雄は、こういったセクシャルな像(男根を象ったものなども多い)を性神ととらえ学究しました。西岡は当地の「大田区立郷土博物館」(東京都大田区区南馬込五丁目11-13 Map→)の初代館長ですが、同博物館は、実は、「まごころ像」の作者・佐藤のアトリエ跡に建っています。 日本では、縄文時代の土偶が最古の彫刻のようです。古墳時代になると副葬される埴輪が盛んに造られ、仏教が伝来すると(
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典『旧約聖書』の
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |